『許し』を日常的な知性によって行ったとき、それは『ごまかし』を生じる。

日常的な知性によって何かを許そうと試みるとは、何かの対象を憎み、それを否定する思考と感情の構造に、それを迂回する薄い思考のコンポーネントを付け加えて覆うことである。そのコンポーネントの下には、依然として対象を許さない心の構造が保存されている。

そのようないつわりの許しによって、表面上はその対象を許しているように見え、また当人もそのように錯覚することができるかもしれない。だが、対象を憎み否定する心の構造がまるまる保存されているため、そのような表面的な許しは、その人の世界に何の変化ももたらさない。

むしろそれは問題の所在を隠ぺいするため、変化を先延ばしする作用を持つ。

だから、日常的な知性によって何かを許そうと試みるぐらいなら、むしろ何も許さず、意識的にその対象を嫌い、憎み続ける方がいい。その方が、そこに何かしらの問題が存在していることを認識できるからだ。

一方、いつわりの許しによって何かを許したとき、問題の所在は自分自身にとっても不可視化され、無意識下に押し込められてしまう。

そのように無意識下に押し込められ隠蔽された怒りや憎しみは、だからいつかそれを隠している覆いを取り去って、陽の光の当ててやる必要がある。そのとき人は自分がごまかし、認識しないようにしてきた大量の怒りと憎しみと、その他諸々のあらゆるネガティブな思考と感情を自らの内に見出す。

それを超次元的な知性によって正しく認識したとき、真の許しが生じ、コールタールのごときドロドロした重く攻撃的な思考と感情は正しく浄化されるだろう。そして絶えず外部の世界に葛藤を生み出していた心の中の原因が、そのようにして浄化され消滅したとき、その人の世界から葛藤は消え、その人の世界は許された幸せな世界へと近づいていくだろう。

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