面白さには二種類ある。

それは『ドーパミン的面白さ』と『セロトニン的面白さ』などと対比して表現することができる。あくまで雰囲気的な表現ではあるが。

前者を、『感情と思考に由来する面白さ』と表現でき、後者を『存在することそのものに由来する面白さ』と表現することもできる。

またより簡単に、前者を『日常的面白さ』、後者を『瞑想的面白さ』と表現することもできるだろう。

前者の面白さの本質は『時間の中で上下に運動する波』である。その面白さは正弦波のようなグラフとして図に示すことができる。そのグラフの上下運動は、楽あれば苦あり、山あり谷ありという、存在するものの自然なリズムを表している。

一方、後者の面白さの本質は『存在の中で放射され続ける意識の光』といったものである。それは時間と空間の根底にある面白さなので、グラフにして図示するなどといったことは難しい。その面白さは時間のない場所で永遠に音もなく響き続けている。

この二つの面白さのバランスを取ること、この二つの面白さの間に調和を生み出すことが、人類に求められている。

それはいわば世俗的生き方と出家的生き方を一つの人生の中で調和させるということである。

片方の面白さを求めるだけでは歪みが生じる。

日常の中、三次元的な意識の中に生じる二極性のある娯楽を楽しみつつ、その根底で響いている非二元的な終わりのない面白さにも親しむこと。

両者の意識状態をシームレスに行き来すること、そのような意識の使い方が求められている。

それは意識を三次元から四次元、五次元的、そして逆に高い次元から低い次元へとなめらかに移行させ、各次元の間にある意識の間隙を埋める技を修得するということでもある。

そのような意識の各領域に習熟し、さまざまなレベルの面白さに気づき、それらの間に調和を生み出せるようになること。それは、この世で習得できる各種のスキルの中でも、特に重要なものであると私には思われる。