意識には二つの状態がある。それは瞑想的な意識状態と、日常的な意識状態の二つだ。

その二つは完全に分離しているわけではなく、本来はひとつのものである。どの意識状態も電磁波のスペクトルのように連続的に繋がっている。

しかし紫外線と赤外線のようにそれぞれの意識状態を別個のものとして分けて考えることは、それぞれの性質を調べるにあたり有益なことだろう。

また実際、瞑想的な意識状態と、日常的な意識状態の間には、大きな断絶と感じられるものがある。それによって今、瞑想的な意識状態と日常的な意識状態は二つに分離されている。

この内なる分離が外界に投影されたとき、それが他者と自己の間の壁となる。その壁は、元を正せば自らの心の中にある、日常的意識状態と、瞑想的意識状態の間にある心の壁に端を発している。

自分の中にある心の壁を溶かすためのワークとして有名なもののひとつに『瞑想』がある。

そのようなワークによって、日常的意識状態と、瞑想的意識状態の間にある壁は、確かに薄くなることもある。だが逆に分厚くなることもある。

心の壁、つまりエゴを薄くするための手段は、無数にあり、時と場合に応じて変わってくる。

昨日まで有効に機能していた『心の壁を薄くするワーク』が、今日は逆に、『心の壁を厚くするワーク』に変わっていることはよくある。

文字に書かれ定式化されたワークは、そこでその作用が固定化される。だが、人間の心の進化、すなわち心の壁を薄くし、心を拡大する運動は延々と無限に続く。そのため、過去に心の進化のために役立った文字情報が、現在では逆に、心を狭く固定化する、退行的な役割を果たすようになっていることはよくある。

これは個人の中でも集団の中でも起こりうることで、日常生活の中でも大きな歴史の中でも普通に起こっていることである。

かつて自分を成長させた、何かの聖典のようなもの。そういったものが誰の中にもある。そういったものがどのような集団の中にもある。

そういった、もう役立たなくなったものは手放さなくてはならない。

古いものを手放して、両手を空っぽにしてこそ、また新たな、何か自分の心を拡大するために役立つ情報が、コンテンツが、ワークが、関係がやってくる。

しかし新たにやってくるものは、いまだ自分の心の中にある古い基準からすると、間違っていて、劣ったものに感じられるかもしれない。

新たにやってくるものは、まだ自分の心の中に存在していないものなので、それを評価するには古い基準を持ってするより他はない。だが古い基準から新しいものを評価したとき、それは間違っているものとして感じられることが多い。だから新しいものを受け入れるのは難しい。

どのようにして新しいものの良さを認めればいいのだろうか。どのようにして古いものを手放せばいいのだろうか?

まずは、そのような能力が本来的に心に備わっていると知ることによって。

それにより、心の新陳代謝はスムーズになされるようになっていく。

新たな自分をもたらしてくれるシグナル、古い殻を破るためのエネルギー、情報、出来事が、日々、世界から自分へとふんだんに送り届けられている。それを受け取るための能力は誰の中にも自然に備わっている。