ここ最近の記事で、私は人間の意識状態を三つに分類した。

  • 五次元意識
  • 四次元意識
  • 三次元意識

それに伴って、人間の意識から生まれるコンテンツであるところの「物語」も、同様に三つに分類した。

  • 五次元的物語
  • 四次元的物語
  • 三次元的物語

次元によって区分けする対象は、別に物語に限る必要はない。だがなぜ「物語」なるものがここに出てくるかといえば、私の趣味が小説執筆だからである。

私はもともと小説を読むのが好きだった。だがあるときから、刺激が足りなくなってきた。あるころから、ほとんどの小説は、どれを読んでも、表面的なパターン、テクスチャーが違うだけで、本質の部分は似たり寄ったりなものに見えてきた。

そこでより強い刺激、より画期的な面白さを持つ小説を、なんとかして自分で書けないかと思うようになった。

それは、たとえは悪いかもしれないが、たくさんの種類の酒を飲んだ男が、「結局この酩酊感はどれもアルコールの作用によるものだ」と気づき、アルコールではない、もっと画期的な、何か別の作用を持つ飲料を探し始めることに似ている。

そのとき、男がまず最初にすべき作業は、「自分はアルコール以外の何かを探しているのだ」と明晰に気づき、それを自覚することである。

そういった自覚はとても大事なものである。それがなければ、アルコールに飽きているのに、それでいて、何度もアルコールの摂取を繰り返すという無駄な行動をしてしまうからだ。

それは、お酒のビンに違うラベルが貼られているのを見るたびに、何か新しい作用を期待して、アルコール飲料を飲むことに似ている。

しかしどんな種類の酒を飲んでも、得られる作用は、結局のところ、アルコールによって得られる作用であり、その範囲を出ることはない。

と、頭でわかっていても、テクスチャーが違うだけの、同じ作用を持つものを延々と求め続けてしまいがちなのが人間である。テクスチャーが違えば、その本質は全く同じでも、なんとなくそれが新しいものに感じられてしまうのが人間である。

またそのテクスチャーというものは、無限に複雑に発展進化しうる。それが貼り付けられている酒ビンの中身、すなわち本質が、アルコールという、まったく変わらない同様のものであっても、その見かけは無限に変化させることができる。

そのような、見かけの変化を楽しむということも楽しい活動であると思う。だが、もし人が、本質的に違う何かを求めようとするなら、テクスチャーを見通し、その奥にある本質の違いに目を向ける必要がある。

  • 五次元的物語
  • 四次元的物語

というラベリングは、物語というコンテンツの、テクスチャーの部分ではない、より本質的な部分を意識的に区分けするためためのものである。

通常、物語の区別は、そのテクスチャーに基づいて行われる。ジャンル分けというやつだ。ミステリー、ファンタジー、SF、いろいろある。

さきほどのアルコールのたとえでいえば、そのようなジャンル分けは、日本酒や、ワインや、ウィスキーといったお酒の種類についての区別に相当する。

そのような区別は、お酒をこれから飲んだり、作ったりしようとする者にとってはとても役に立つだろう。しかし、お酒以外のものを飲みたい、あるいは作りたいという者にとっては役に立たない。なぜならその区別は、お酒の種類に関するものであり、その者が作りたいのは、お酒以外の、何か別のものだからである。

そこで新しい区別が必要になるわけである。ここで出てくる新しい区別は、意識に対する作用に基づいて作られている。以下のように。

意識に対して、四次元的な枠組みを強化する作用を持つ物語を、四次元的物語と呼ぶことにする。

そして、意識に対して、五次元的な枠組みを強化する作用を持つ物語を、五次元的物語と呼ぶことにする。

ところで、世の中にある物語の九十九パーセントは四次元的物語である。なぜなら、人間の意識活動は、通常、四次元的なものだからである。

人間は空間を、三次元のものとして認識している。また時間を、過去から未来へと続く一本のタイムラインとして認識している。空間の三次元と時間の一次元を足した、四次元的な時空間、それが人間の日常的な世界観だ。

そのような世界観に基づいて作られるため、物語のほとんどは四次元的なものである。

しかし、少なくとも、意識には「五次元的な意識状態」というものがあるのだ。よって、その意識状態から生み出された、五次元的な物語というものも存在することが可能なはずだ。

だが、これはなんというか、仮定に仮定を重ねたような曖昧な話であり、はたして他の人にどこまで私が言わんとしていることが伝わるのかは不明である。

そもそも「五次元的な意識状態が存在する」という前提自体が、ほとんどの人にとって、「なんのことやら」という話であろう。

また仮にそんなものが存在するとしても、ほとんどの人はそんなものになんの興味も持たないのではないだろうか。

でもごく一部の人は強烈に興味を持つはずだ。私も強烈かつ持続的にその方面について興味を持ち続けている。このブログは、そういったものに強い興味を持っている、つまり私と同じものに興味を持っている人のためのものである。

よって「五次元的な意識状態」という言葉に何かしらの興味や好奇心や意味を感じない場合は、時間がもったいないなのでこのブログはもう二度と見ないことをお勧めする。なぜならこのブログはその類のことがメインテーマのブログだからである。(興味ある人はぜひ読んでいってね)

それはさておき、とにかく人間の意識状態には、五次元的な意識状態というものが存在しているという前提で話を進める。

その意識状態は、体験したことのある人なら、「ああ、あれね」「うんうん、あるよねー」で話が通じると思うが、体験したことのない人にとっては、雲をつかむような話であると思う。だが私にとってそれは長年の興味の中心であった。

で、私はあるとき思ったのだった。この五次元意識状態というものを、娯楽として表現をしたい、と。

すでにこの世に存在する、五次元意識状態が文章によって表現されたコンテンツとしては、パッと思い浮かぶものとしては、お経とか、つまり般若心経とか、そういった、非娯楽的なものばかりだと思う。

しかし五次元意識状態とは面白いものであり、その体験自体が一種の娯楽である。よってその意識状態に基づいて作られた娯楽作品があったなら、それは理論上、かつてない種類の面白さを秘めた作品になるはずである。

というわけで私は五次元的小説を創作するというプロジェクトを淡々と続けた。いろいろ頑張った。

その結果、「五次元的な物語を創造することは確かに可能である」ということがとりあえずわかった。

しかしそれには、まず最初に、それを作ろうとする者自身が、素の状態で、ある程度、五次元的な意識状態をキープできるようになる必要があった。それは当然のことである。描こうとするものを、意識の上にキープできなければ、それは描けない。

「なんか一瞬だけすごい意識状態になった!」みたいなことは、創作活動という地道な作業の役には立たない。描きたい意識状態が自分の日常的なものになって初めて、それを基にしたクリエイティブな活動ができるのである。

さて、今日の投稿はやけに長くなったが、最後に書いておきたいこととして、、、

五次元的創作物、四次元的創作物、というような区分けは、「作品の優劣」とは全く関係のないことである。

それは単にその作品がどの意識状態にフォーカスして描かれているかを表すための区別にすぎない。

もし作品の優劣というものが存在するとしたら、それは普通に、作品の表現の強度とか、そういったものが関わってくることであって、それをどう高めるかは、また別の話である。