前々回の記事では四次元がどうのこうの、五次元がどうのこうのという記事を書いた。というかここしばらくそんな記事をずっと書いている。

この「四次元」「五次元」という用語は、私が指し示そうとする対象を言葉で描くにあたり、他にふさわしい用語がないために使っているだけであり、私としてもこんなドラえもんみたいな言葉は使いたくない。しかし他にふさわしそうな言葉がないために、しかたなく使っている。

いや、一応、他の言葉に言い換えることもできる。しかし言い換えた先は、より怪しい言葉だったりする。

四次元意識はアストラル界にフォーカスした意識状態と言い換える事ができる。同様に五次元意識はコーザル界にフォーカスした意識状態と言うことが出来る。

アストラル界って。。。

こんな言葉を使うぐらいだったら、まだ四次元とか五次元とか言ってた方がマシではないだろうか。そんな思いを抱えながらこの文章を私は書いている。

とにかく、私は心の中の、かなり微妙な、主観的な感覚の違いについて書こうとしているのだが、それを書くには、今のところこのような、瞑想/スピリチュアル用語に頼るより他はないというのが実情である。

なぜなら自分の心の中をダイレクトに深く覗き、そこにある世界を精密に描こうとする体系的ワークは、今のところ瞑想やその類のスピリチュアルなワーク以外には存在していないからである。

科学的に、あるいは少なくとも、外から客観的に、心を分析しようとする作業では、心の主観的なクオリティを主観的に捉えたり、それを表現したりすることはできない(たぶん)。

また、精神分析的なアプローチは、その目的が主に心の病気を治すためのものであって、正常に機能している心の、高い部分や深い部分を探ることはその目的とされていない。

だから精神分析的な心の地図は、心の浅い部分だけ解像度が高くなっていたり、心の高い部分はすごく大雑把にまとめられたりしていたりする。そのため、心の高い部分に到達し、そこにある不可視のものを目に見える形に表現しようとする目的のためにはほとんど役に立たない。

そんなわけで「四次元的意識」「五次元的意識」、などという怪しい用語を渋々使いながらここしばらく記事を書いてきた。

その用語はとても怪しいが、それによって描かれる心の地図は、人生の全領域に対して、実用的な価値を持っている。

例えばそれは私の趣味でありライフワークである物語の創作についても大いに役に立つ。

例えばそれを使って、物語を分析することもできる。その物語が、意識のどの階層を主なターゲットとしているものなのかを理解することができる。

五次元的物語
四次元的物語
三次元的物語

このような意識の次元による物語の区分けが、従来の物語分析の手法に重ねられたとき、一回り大きな風通しの良さが、物語創作の実作業の現場に吹き込まれることになる。

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意識と次元についてのアウトラインが書かれています。