前回の記事では、人間の意識状態を、『次元』によって区分けしてみた。

この『次元』という用語での区分けは瞑想/ヒーリング的世界観の中では、よくあるものであり、実際に自分の心の中を瞑想によって探求するにあたり、有用な指標のひとつとなる。

またそのような意識状態の区分けは、何かを創作をするにあたっても、「自分がどの意識状態に関する物事を創りたいのか」ということを理解するのに役立つ。

さて、今回の記事では、五次元意識での娯楽というものについて考えてみたい。

五次元的な娯楽の創造、それが私の長年の興味の核心である。

いま現在、通常の人間の意識モードは四次元的なものである。

人間は三次元空間をちゃんと知覚できるし、過去から未来への時間の流れも想像できる。よって人間は世界を四次元的なものとして捉えており、その世界認識を反映した娯楽を作る。

だがその娯楽空間には自ずと限界がある。四次元意識は過去から未来へという一本のタイムラインに縛られているし、三次元的な物質性にも縛られている。そのため、その意識状態から生まれる娯楽にも、同様の制約があるということだ。

制約があるために、だいたいの物語はその内側に世知辛さを抱えている。幸せは長く続かないし、喜びの後ろには常に悲しみが感じられる。

そのような制約を突破した、五次元的な娯楽作品を作りたい。世知辛さを超えた、ばーっと大量の喜びがそのなかになみなみと溢れているような娯楽である。

そんな思いが、かつて『NHKにようこそ!』を書いた直後の私に生まれた。そんなものを作れたら、作家としてマジすごいな、という野心、そして、とにかく何かこう画期的なすごい作品を読みたい、書きたいという情熱があった。

二千年代前半のことである。私はとりあえずそのプロジェクトを始めるにあたり、先行作品の研究を始めた。

当時はなんらかの創作テクニックによって、五次元的な娯楽を想像できるのではないかという希望があった。

テクニックであれば、それを学び、使うことで、望みの結果を得ることができる。私はさまざまな作品を研究し、作品の中に五次元的雰囲気を醸し出すためのテクニックを探した。

いくつかそれらしいテクニックが見つかった。

・世界を入れ子状にする

これは多次元的雰囲気を作品内に出すにあたって、もっともよく使われるテクニックである。例として、『マトリックス』や『はてしない物語』などがある。世界Aと、世界Bが、多層的に配置されており、主人公の意識が、他方から他方へと次元を超えて移動する。マトリックスでは「仮想現実」によって、はてしない物語では「読書」によって、世界から世界へと意識をダイナミックに移動させることができた。その移動による視点の上下運動が、読者の意識をも引っ張り込む力を持っており、それが読者の世界認識に、何らかの変化をもたらす効果を持っていた。

・時間をずらす

これは説明が難しいテクニックなのだが、一応、説明してみよう。これは物語の一本のタイムラインの中に、突如、過去の時間軸をざっと挿入するというようなテクニックである。よく推理小説の叙述トリックとして実装される。書かれているのは過去だと思ったら、実はそれは現在のことだった! というような感じだ。うまくその技が決まると、読者の現実認識を一瞬だけ揺るがすような効果が得られる。

だがこういったテクニックによっては、五次元的雰囲気は、ほんのちょっと、ごく一瞬だけしか作中に醸し出せないということがその後の研究によってわかってきた。

こういったテクニックは作中で数度使われるだけであるし、それによって一瞬揺らぐ現実認識は、ほんの一瞬のことである。

ではなぜこれらのテクニックは、作中で数回しか使われることはないのか。

これらのテクニックは、五次元的意識状態を、四次元的意識状態内に一瞬だけ挿入したときに生じる効果を、創作の上に再現したものである。

五次元的意識状態とは、世界と世界が重なり、壁が溶け合ったような意識状態である。またそれは過去と未来と現在が一つに融合したような意識状態である。

上で説明した「世界を入れ子状にする」というテクニックでは、次元の違う世界AとBが融合する感覚を描くことができた。また「時間をスライドする」というテクニックでは、過去と現在が今この現在の中に融合する感覚を描くことができた。

しかしその感覚を常時、物語の中に描くことは、物語のタイムラインを破壊することに等しい。

つまり、、、簡単に言えば、五次元的感覚を物語内に書けば書くほど、その物語からはリアリティが無くなり、しっちゃかめっちゃかの、滅茶苦茶なカオス、あるいはただの真っ白なフラットラインのようなものになってしまうということである。

五次元的意識状態とは、なんでもありな意識状態だ。それをフィクション内に持ち込んだとき、そのフィクション内の因果関係は意味を失い、フィクション内のキャラクターを動機づける欠乏感や、何かを手に入れたいという欲望も意味を持たなくなる。なぜなら五次元的意識状態では、それはもう最初から満たされているからだ。

これはいわゆる現代音楽から調性やコードの進行感が失われていったことと関係があることのように思われる。またアンビエントミュージック的なものが創造されたことと関係があることのように思われる。

一方で、四次元的娯楽作品(つまり通常の娯楽作品)は、溜めて解放する、サスペンドして解き放つというような、あるいは不安定なドミナントから安定感のあるトニックへと言うような、二極に分離したコントラストを必須とする。

だが五次元的娯楽作品は、コントラストをむしろ融合させていく方向性に働く。それはまるでシンセサイザーがただふわーっと鳴ってるアンビエントミュージックのようなものだ。

その中にコードの進行感を持ち込んだとき、そのふわーっとした気持ち良さは失われてしまう。だがふわーっとした気持ち良さだけでは、人の意識を吸引するかのような進行感を出すことはできない。

つまり四次元的娯楽作品の手法と、五次元的娯楽作品の手法は水と油のようなものであり、それを同居させることは極めて難しいものであるということがだんだんわかってきた。

だが五次元的なふわーっとした気持ち良さと、四次元的な、気持ちをアップダウンさせる、麻薬的な中毒性を、いい具合に同居させた創作、それこそが私の作りたいものであるという気が日に日に強まってきた。しかしそれをどうやって成し遂げたらいいのか私にはさっぱりわからなかった。

(わかりにくい話の上にわかりにくい話が重なり、さらに内容が未整理のため、余計にわかりにくいかと思いますが、とりあえずいろいろ書いてみて、頭の中のものを表に出してみる月刊ということで。。。)