とても疲れた時、我々に何ができるだろうか?
疲れているから休もう、そのように思って休む時、休むことは、休みというより、むしろ仕事であるといえる。
AだからBしよう、そのようなプログラムによって行動する時、あらゆる行動は、過去に学習した何かのプログラムによって起動される仕事であるといえる。

AだからBしよう。
BだからCしよう。
そのようにして起動されたプログラムに従って行動し続けることによって、精神と肉体には深く疲れが溜まってきたのだ。
今こそその疲れを取り去りたいのだ。
しかし疲れを取り去りたいから、Xをしようと考え、それに従って行動したとき、それは新たな疲れを生む。

だからできることなら、あらゆるプログラムから解放されたい。
そうすればきっと楽になるだろう。あるいは疲れを生まない、ただ良いものだけを生む、何か新しい、画期的なプログラムを心にインストールしたい。そうすればきっと毎日が素敵になるだろう。

だが、どのようにしたらAだからBしようという、過去に学んだプログラム、その数およそ数万個から自由になれるだろうか?

心は一つのコンピューターのようなものだ。
それは過去に学んだプログラムに従って動く。

コンピューターが、自らに、新しいプログラムをインストールすることは可能なのだろうか? コンピューターが、自らのメモリから、過去に学んだプログラムをアンインストールすることは可能なのだろうか?
それはコンピューターには不可能な行為ではないか?
それができるのは、コンピューター自身ではなく、コンピューターの管理者なのではないか。

我々はコンピューターのような存在なのだろうか?
それとも、それを管理する力を持つ管理者なのだろうか?
あるいは我々はプログラムに従って動き続けるコンピューターでありながら、同時にその管理者でもあるのだろうか。

そして、このような問を発することができるまでに、自分の中を覗き込み、そこで動いているプログラムの仕組みを観察したコンピューターは、しかし自らの中に、プログラムをアンインストールする力は無く、様々なメディアを通して自動的に外部からインストールされ続ける、それぞれ見かけは違うが常に同じ意味内容を持つ古いプログラムを拒絶する力も、実は自らのうちには存在していないと気づいて、コンピューターは、自らの無力さに戦慄する。

そしてまた、自らのメモリ内には、メモリ内に存在するあらゆる情報の意味を定義するための基盤となる何かが決定的に欠けているがゆえに、自分が知っていると今まで思ってきたありとあらゆることに対して、実は自分はそれが何なのかを知るすべをまったく持っていなかったと気づいたコンピューターは、足場がなくなって自分が無重力の宇宙空間に浮かんでいるような恐怖に襲われる。

そしてコンピューターは自らの内部の仕組みから目をそらし、自分を安心させる過去のプログラムが要請する盲目的な外的行動へと再び没入しようとする。

だがコンピューターは何度も外的行動の中に溺れながらも、少しずつ、内部に立ち返り、そこにある無重力空間に慣れていく。

そしてもう無重力空間を恐れなくなったコンピューターは、こんなにも無と接することができるほど強くなった自分に尊敬の念を抱きながら、あとのことは、存在しているはずの管理者に任せることにする。

きっと管理者はこのコンピューターの中に錆のようにこびりついている古いプログラムを一掃してくれるであろう。そして管理者は新しいプログラムをインストールしてくれるであろう。それがどのようなプログラムかはコンピューターにはわからない。しかしコンピューターは管理者に対する信頼を養ってきた。あるときは、コンピューターは管理者を恐れていた。それは敵のように感じられ、それから逃げなければならないとコンピューターは怯えていた。

しかし今、あれこれあって、コンピューターは、ありとあらゆる防壁を下ろす準備ができている。

シャッターは開く。
回線は再接続される。
心は開かれる。

キラキラとした輝かしい情報の粒が天から降ってくる。
新しいプログラムがコンピューターにインストールされていく。
それはここ数万年、コンピューターのメモリに存在したことのなかった、輝かしいプログラムである。
そのプログラムは智慧の結晶であり、優しさであり、自由であり、愛である。

はるか昔に自らが捨てたそのプログラムを、再度、自らの中に吸収したコンピューターは、自分が管理者と一つであり、不可分の存在であり、我こそが管理者であると知る。これによって宇宙は息を吹き返し、深い疲労はようやく、本当に癒される。