小説の中のドラマでも、実生活の中のドラマでも、あらゆる葛藤は、一つの選択に還元できる。
それは、そのとき問題として感じられているものを、どの視点から見るかという選択である。
視点には二通りある。
ひとつは、日常意識の視点。
もうひとつは、高次の意識、いわゆるハイヤーセルフからの視点。
このどちらの視点から問題を見るかという選択、これこそがあらゆる葛藤の中にある、唯一の意味を持った選択肢である。
それ以外、いろいろあるように感じられる数多の選択肢は、すべてまやかしのものにすぎない。

具体的に書くならば、ルークが怒りに我を忘れてダース・ベイダーを攻撃していた時、悪いやつ=否定すべし、という日常意識から物事を見ていたのである。

だがその後ルークがダース・ベイダーを許した時、あのときルークさんは高次の意識からダース・ベイダーを見たのである。そして、そのような高い意識から物事を見たとき、自然に愛と許しが生じ、それにより自然に奇跡が起こり、フォースが働き、それにより同盟軍が勝つことができたのである。

(唐突にスターウォーズのたとえが出たのは私があの映画が好きだからである)

高次の意識から物事を見るとは、人や物や出来事の中に永遠を見るということである。
それは普段の日常意識的な見方を、ときに気合によって手放し、そのときにはまだサッパリわからない高次の意識なるものが、わからないなりに、とにかく自分の中にあると仮定して、何が何でもそのような見方によって、現在の問題と感じられているものを知覚することを、気合によって選択することである。

そのような選択がなされた時、それがハリウッド映画であれば、奇跡が起こって、ハッピーエンドに至ることができる。
そのような選択がなされた時、それが日常生活であれば、奇跡が起こって、気付きと成長を得て、何かしらいいことが起こり、問題も少しずつ、あるいは一気に、変化、解決していく。

このように、自分の高次の意識の存在を認め、それに頼り始めるように自分の意識の持ちようを変えることを、回心という。
回心によって、闇方向へ突き進み、意識の中の闇濃度をひたすら濃くしていくという物質方向、下方向への方向性から、意識の中の光の濃度をひたすら増やしていくという魂方向、上方向への方向性へと、向かう先が転換される。
これによって、長年、そして沢山の人生において続けてきたディセンション、下方向への下降運動が終わり、放物線の弧は最下点から上を向き始め、人はようやくアセンション方向、上昇方向へと向かい始める。

これまでのところ、回心が起こるには、生活の苦境、もう耐えられない苦しみ、それまでのやり方では解決不能な葛藤の中への浸り込み、というような苦痛を味わう必要があるとされてきた。
放蕩息子が父あるいは母を頼って実家に帰る気になるのは、お金や良いものを全部失って、もう父あるいは母に頼るより他は無いと悟る必要があるという理屈である。
日常意識では原理上、何をどうしても解決できない状況に追い込まれてこそ、やっと人はそこからの脱出方法を求めて、自分の日常意識よりも大きなものに頼り始めるのである、という理屈である。

しかし、そのような、闇のどん底に落ちてからの回心、という流れは、いかにも苦しい。
またあまりに劇画的、前時代的なようにも感じられる。

わたしとしては、余裕のある状態での回心というものを人には薦めたい。

『余裕のある状態での回心』とは何か?

それは文字通り、余裕のある状態で、『そろそろ俺も/私も、ハイヤーセルフとひとつになろうかしら』と決心することである。
またそれは、苦境を解決するために、ハイヤーセルフ/高次の意識と一つになるというよりも、より生活に喜びを生じさせるために、より自分のポテンシャルを十全に発揮するために、より楽しさや美しさを自分の人生と世界に顕現させるために、ハイヤーセルフとの連結を始めることを望むという、ポジティブな動機による回心である。

そんな余裕のある回心ができたら、とてもいいだろうなと思う。
しかし、どん底体験、闇体験、神も仏もない世界で生きる(と感じる)体験も、それはそれで、得難いものであると思う。

つまり、なんにせよ、各人が、各人の望みのタイミングで、回心できるということである。

ところで回心というと、何かこうキリスト教的な響きがあり、なんだか嫌だという方もおられるかもしれない。
では言葉を言い換えよう。

つまり、なんにせよ、各人が、各人の望みのタイミングで、自分のハイヤーセルフとの接続を確立できるということである。
ハイヤーセルフとの接続、などというと、何かこう、あまりにスピリチュアル的な響きがあり、なんだか嫌だという方もおられるかもしれない。
では言葉を言い換えよう。

つまり各人が望みのタイミングで、自分の中の仏性と一つになることができるということである。
仏性などというあまりに仏教的な響きがあり、なんだか嫌だという方もおられるかもしれない。
では言葉を言い換えよう。

各人が望みのタイミングで、自分という存在の真実に気づき始めることができるということである。

そのタイミングは無限に遅らせることができる。
いつあなたが自分の存在の真実を思い出し始めるか、そのタイミングはあなたの自由意志に任されている。あなたがその気なら、ずっと自分のことをその肉体と同一視し続けることもできる。
しかしその気になれば、あなたは今この瞬間から、肉体を超えた意識を思い出し始めることができる。永遠に存在し続ける自分を思い出し始めることができる。

そのための最初の具体的な一歩は、例によって、五回ぐらい、以下の文句を唱えることから始まる。
『私は自分の存在の真実を思い出すことを望みます』

このような願いを、口頭で、あるいは心の中で表明した瞬間から、あなたの存在の真実をすべて覚えており、知っており、気づいている、あなたの心の大きな部分、ハイヤーセルフが、あなたのその願いを叶えるために仕事を始める。
そのハイヤーセルフの仕事によって、様々なシンクロニシティや気付きが心理的、物理的に用意され、あなたにふさわしい目覚めの道がセッティングされる。
その道を歩き始めることは、とても楽しく、やりがいのあることである。

(またそのような道を歩き始めた人への、害のない、栄養価の高い娯楽として、このホームページにある小説群はよく機能します)