前回わずかにグノーシス主義の神話に触れたが、その用語が持つめくるめく中二病感に、読み返してみた私自身、めまいがする思いである。

事実、それはオタク的コンテンツを作るのにとても使い勝手がよく、ぱっと思いつくだけでも、田中芳樹の「夏の魔術」シリーズや、ゼノサーガシリーズなどにそのテクスチャーが微妙に取り入れられて、ナイスな効果を発揮していたはずである。

そのような中二的物語(いい意味で使ってます)を作るのに便利な神話の用語であるが、本来はもっと別の使い方をされていたはずである。

世界のいろんな神話や宗教が持つ各種のシンボルは、そもそもなんのために使われていたものかというと、心の中を探索するための、目印として使われていたのである。

心の中の、日常的な意識領域を探索するには
日々の生活の中で日常的に使用しているツール、つまり、言語的思考と感情を使えばいい。それによってその領域はくまなく探索することができる。

しかし心の中の、具体的思考よりも、もう少し抽象的な思考が存在している領域は、具体的思考によって探索することができない。その領域を探索するには、シンボルを頼る必要がある。

前回の記事で出たアルコーンという中二的用語もシンボルであって、心の中にある何かしらの構造を指し示している。またそのようなシンボルがあるからこそ、その構造に用意にアクセスし、そこに何かしらの変化を起こすためのインナーワークが可能になる。

そのような各種のシンボルによって構成された心の地図は、多くの人のインナーワークの役にたったはずである。そして後年、多くの人の中二的創作行為のテクスチャーとして今現在も、役に立ち続けている。

一石二鳥とはこのことか。

多角的に、長期的に役立つそのようなシンボル体系を作り出した大昔のクリエイターは、大いに讃えられてしかるべきである。だがたいていその名前は、歴史の中に埋もれているようである。