意識を進化させるためには、まず最初の段階として、なにか信じられるものを探す必要がある。この段階では大量の物量が必要となる。感覚的体験、感情的体験、知的体験を浴びる必要がある。たとえば本を死ぬほど読んでみるといいかもしれない。
次に、死ぬほど読んだ本や各種体験によって得た知識の中には、何ひとつ信じるに値するものがないことを知る必要がある。そのうえで、今まで頑張って築いてきた土台を破壊する必要がある。この作業では絶対に自分をごまかさないぞという気合が必要になる。なぜなら人は雰囲気によって、ごまかされがちな存在だからだ。さまざまな気分や雰囲気、感情によってごまかされないよう、気をつけよう。また、その作業の途中では、あらゆる精神的足場が消失したかのようなコズミック・ホラーを味わう可能性がある。怖くなってもくじけないよう、気を強く持とう。
この段階まではおそらく多くの人が到達している。だがさらに次の段階に進むためには、ひとつの強固な壁を乗り越える必要がある。それは『自我との自己同一化の解消』と、『存在の神秘への帰依』である。非常に神秘的な雰囲気を持ったこの二つの行為、『自我との自己同一化の解消』と、『存在の神秘への帰依』も、やはりこれまでの活動によって得た知識の論理的な帰結としてもたらされるものである。信じるに値するものが無いなら、無意識的、意識的に信じているもの、すなわち観念によって構成されたエゴ、すなわち自我は放棄するよりしかたない。しかし自我が信じられなかろうがなんだろうが、なんにせよ自分は存在している。その事実は神秘である。よってそれに帰依するより他は無い。
『自我との自己同一化の解消』と『存在の神秘への帰依』は、二つで一セットのものである。どちらか一方だけで、この先に進むことはできない。なぜなら、今まで、自分は自我に帰依してきた。それへの帰依を外したとき、新たに帰依すべきもの、つまり、それこそが自分であると自己同一化する対象が必要となるからである。
というわけで、人はあるとき、今まで自分だと思っていたものを消滅させながら、言葉では語ることのできない崇高なものに自分のアイデンティティを整列させていく作業を始めることになる。この作業が今の時代の人間に求められている、意識の進化のための避けて通ることのできない作業である。
ところで、多くの人がこの作業に関して勘違いをしている。つまりこれは、理性が、不合理なものに屈服して地に落ちる過程であると。だがそれは勘違いだ。これは、理性が、自分の限界を悟り、それ以上のものを求めるために、自分の機能に安住することをやめることだ。つまり、低みに堕ちることではなく、まだ手の届かない高みにジャンプすることなのだ。しかも何度も何度も。
この作業は極めて意識的な行為であり、無意識的、自動的に行われるものではない。非合理的なものへの退行ではない。ましてやいわゆる宗教的なものや迷信的なものへの盲従などでもない。宗教や迷信、あるいは特定の世界観を信じるということは、何か言葉で表すことのできる観念を心にインストールし、それを根拠なく信じるということであって、そんなことできるわけがない。
またこれは当然、狂気に取り憑かれることでもない。狂うということは何か特定の観念や感情に圧倒されるということであり、それはつまり何かを信じている状態である。その状態に逆戻りするには、理性が発達しすぎている。戻れるわけがない。
また、機械的に何かの行為を続けたり、繰り返したりすることで、自我との自己同一化が解消されたり、存在の神秘に接近できたりするわけでもない。あくまで意識的に、意識を自我に向けるのをやめ、その代わりに、今、この瞬間に存在している存在の神秘に集中させることによって、少しずつその過程は進展していく。
それは、ひたすら服を新しいものに着替えていく過程に近い。それは、ひたすら脱皮と羽化を繰り返しては、見知らぬ自分へと進化を続けていくことに近い。
この行為、すなわち進化のために意識を自我から脱同一化し、まだ何がなんだかよくわからぬ超意識へと整列させていくという行為の過程で、これをアシストするための様々なシステムの助力を得ることはあり得る。というよりそれは必要不可欠と思われる。
また、そのシステムには多かれ少なかれ、特定の世界観が存在し、また特定の物語がそのシステムには内在しているだろう。だがそれは意識を高みに昇らせていくために使うハシゴであって、人の意識を進化させるという目的のために使われる一時的な道具に過ぎず、昇った後では捨てられるか、どこか適当な場所に記念として飾って置かれることになる、そのようなものだ。このホームページにある様々な文章や物語や創作瞑想も、すべてその類の、一時的な道具である。
あらゆる文章、物語、世界観、各種システム、それら外にあるものはすべて一時的なものであり、それらは意識を、自らが永遠のものであると気づくことができる地点まで連れて行くために使われる。
この文は、すでにこの作業を始めている人間/この作業をマスターしつつある人間にとっては、「そうそう、そういう感じだよね」と共感を持って読まれるかもしれない。また、この作業を始める準備が整いつつある人間にとっては、ひとつの道標として機能するかもしれない。だが、まだまだまったく、この作業をする必要性を持っていない人間にとっては、まるで理解不能であるか、この文章が伝えようとしている内容とはまったく別の何かが書かれた文章として認識される、つまり誤読されるのではないかと思う。だがいつか未来に思い出されて、役立つこともあるかも知れない。