散歩をしていると道端に花が咲いている。

 それを見落として通りすぎても、行く先には、他にも面白いものがたくさんある。

 もし行く先にある面白いものを見落としても、私の心の中には面白いものが沢山ある。

 その面白さは筆舌に尽くしがたく、しかも無限に湧いてくる。

 心の中でその面白さを味わうとき、時間の流れは止まり、私はその面白さ、そのものになる。

 でもそれを味わうには、ひとつだけ条件がある。

 その条件は我を忘れること。

 なぜなら、面白さそのものになる、とは、心の全面を面白さで埋め尽くすことだから。

『我』を維持していたら、それが心の前面にあるわけで、それがそこにある限り、面白さで心をうめつくすことは不可能だ。

 だから我を忘れることが、面白さを最大限に味わうための必要条件だと言える。

 でも、どうやって我を忘れたらいいのだろう。

 生まれてきてからずっと、我を強くすることに全力を注いできた。

 もう夢の中ですら我から逃れることはできないほどに、今ではそれは、とても強く厚くなっている。

 そんなものをどうやって忘れたらいいのだろう?

 そんな疑問に対し、あるとき、どこかから答えが返ってくる。

「心の中にある『我』も、道端に咲いている小さな花と同じようなもの」という答えが返ってくる。

『我』を観察してそれを愛でるもよし。

 その複雑な、よく構築された構造物の存在をスルーして、行く先にある何か面白い物に向かうもよし。

 存在するものはどれも見方によっては面白い。

 その見方に気づいた時、沈黙の中で、四方から押し寄せる面白さに包まれ、左右に揺るぐことのないゼロの上に、極性のない面白さが、空間の四次元方向へと、厚みを増して、深まってゆく。


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