散歩をしていると道端に花が咲いている。
それを見落として通りすぎても、行く先には、他にも面白いものがたくさんある。
もし行く先にある面白いものを見落としても、私の心の中には面白いものが沢山ある。
その面白さは筆舌に尽くしがたく、しかも無限に湧いてくる。
心の中でその面白さを味わうとき、時間の流れは止まり、私はその面白さ、そのものになる。
でもそれを味わうには、ひとつだけ条件がある。
その条件は我を忘れること。
なぜなら、面白さそのものになる、とは、心の全面を面白さで埋め尽くすことだから。
『我』を維持していたら、それが心の前面にあるわけで、それがそこにある限り、面白さで心をうめつくすことは不可能だ。
だから我を忘れることが、面白さを最大限に味わうための必要条件だと言える。
でも、どうやって我を忘れたらいいのだろう。
生まれてきてからずっと、我を強くすることに全力を注いできた。
もう夢の中ですら我から逃れることはできないほどに、今ではそれは、とても強く厚くなっている。
そんなものをどうやって忘れたらいいのだろう?
*
そんな疑問に対し、あるとき、どこかから答えが返ってくる。
「心の中にある『我』も、道端に咲いている小さな花と同じようなもの」という答えが返ってくる。
『我』を観察してそれを愛でるもよし。
その複雑な、よく構築された構造物の存在をスルーして、行く先にある何か面白い物に向かうもよし。
存在するものはどれも見方によっては面白い。
その見方に気づいた時、沈黙の中で、四方から押し寄せる面白さに包まれ、左右に揺るぐことのないゼロの上に、極性のない面白さが、空間の四次元方向へと、厚みを増して、深まってゆく。
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