何を面白いと感じるかは人それぞれだが、ときどき、自分の面白いと感じるものが、この世には普通に存在していないように感じる人がいる。

そんな人も頑張って日常の中に面白いものを探し、ときどき面白く感じられるものを人生の中に見つけ、もしかしたら時に何かに熱狂するかもしれない。

だがしばらくすると、面白く感じられたものは、もう面白いと感じられなくなってしまう。

そこでその人は、また新しい、何か別の、より面白いものを探す。

だが最終的に、面白いものは、もうこの世には何もないと思える地点にまで、いずれその人は到達してしまう。

そこでその人は、自分が生きている世界の外に、面白いものを探し始める。

自分が生きている世界の外にあるものとは、その人の意識の外側にあるもののことである。

それはその人の意識の外側にあるため、予測不可能である。

想像することすらできない。

想像することすらできないものは、その人の意識にとって、存在しないものであり、無であると言える。

その無の中に、まだ知らない、何か面白いものが眠っているような気がする。

そうその人は考える。

そこでその人は、無の中を探求するために、無に、意識の焦点を合わせる。

すると、次第にその人と無は仲良くなっていく。

そして、その人のハートと無は、いつしか共鳴を始める。そのハートには情熱が宿り始める。

それは無によって供給される無限のエネルギーである。

そんなものが無限の可能性の海の中にふつふつと煮えたぎっている。

静かに煮えたぎっているそれは宇宙を生み出す力である。

それは今まさに現在進行形で宇宙を生み出し続けている。

その力は今まで、盲目的に宇宙を生み出し続けてきた。しかし今その力は自分自身の可能性に気づきつつある。

無の中に宇宙が浮かんでいる。

それは何の根拠もなく、足場もなく、存在している。

そして、時間は錯覚である。今、この瞬間だけがある。

そのために原因と結果も錯覚である。因果の鎖は繋がっていない。

AならばBであり、BならばCであるがゆえに、AはCであるという、論理のひとつひとつのパーツの間には、無限の間隙があり、その隙間を埋めているのはただの惰性的思考習慣である。それゆえに、存在するすべては、過去から未来へと続く因果の流れのパーツとして存在するのではない。そうではなくて、目に見えるひとつひとつのもの、そのすべては、瞬間瞬間の奇跡として、なぜかはわからないが、不思議なことに、いまここに存在している。

その存在のきらめき。

太陽を反射して煌めいていた、夏休みの海の水面のように、それは時間を超えて輝いている。