語りえぬものについては沈黙しつつテレパシーで伝えつつ、それでいて何かしらの方法で、五感によって捉えられるものとして対象化しなくてはならない。

そんなことが可能なのだろうか。もちろん可能なのである。

何事も願うことから始まる。

『今の自分には無や虚空として感じられる五次元的意識を明瞭に言葉や文章によって表現できるようになることを望む』

このように望むことによって、それはいずれ可能になる。

だがそれが可能になることによって、どのような日常的利点があるというのだろう。

考えられる利点を箇条書きにしてみる。

  • 日常生活の中により強烈に五次元的なフィーリングが根付く。
  • 時間や空間を超えるような文章が書けるようになる。

それにしても時間や空間を超える文章とは、はたしてどのような文章のことだろうか。今の私にはわからない。わかるようになるには、実際に五次元的な文章を書くという挑戦をしてみるしかないのだろう。

では今、実際に、五次元的な文章を書いてみる。

手順としては、

  • めっちゃ深く瞑想する。
  • とにかくひたすら深く瞑想する。
  • その状態で何か書いてみる。

といったことになる。深く瞑想と一口に言っても、その中には様々な意識状態のレベルが、レイヤーのように重なっている。その折り重なっているレイヤー全体が浮かんでいる虚空が五次元的意識であり、それに意識が一体化するまで瞑想する。

完全に出来る必要はない。またそれができるできないということよりも、五次元的意識に繋がると意図することが大事だ。なぜなら五次元的意識は、自分のその日常的人格が発した意図を、しっかりと感知し、汲みとった上で、その望みを叶えてくれるだろうからである。

そういった、今の自分にはよく仕組みがわからないが、とにかく勝手にうまく機能する巨大な何かのシステムが、いいように諸々を手配してくれると信じ、その上で五次元ライティングをすると、だいたいそれはうまくいくはずである。

 

基本的に、文章は、物事と物事の間に壁を作り、それらを切り分けるという性質を持っている。

今、書きたいのは、その逆の性質を持った文章である。

それは記号の集まりでありながら、ものともの、対象と対象を融合させ、調和させていく性質を持つ。

そのような働きを持つ文章に必要な質は、放射や輝きである。

一つひとつの言葉が、内側から光を発しているような質を持っていれば、その文章の中にある単語ひとつひとつは、意識を分断する作用よりも、意識の中にある壁によって切り分けられている空間と空間を融合させていく作用を持つだろう。

だが放射と行っても、そんな質を、ただのデジタルデータにすぎない文章に、どうやって付与したらいいのか。

もちろん、デジタルデータである記号の見かけを変えることはできない。だがその記号に結び付けられている意味感覚を変えることはできる。その意味感覚は、まず自分の心の中にあり、そして自分の心は、他人の心とテレパシー的に結び付けられているからである。

つまり、「みかん」という言葉があるとして、その文中の「みかん」という記号に結び付けられている意味感覚を自分の中で変えることによって、それを読んだ他人の中に生じる意味感覚を変えることができるということなのか。

しかしそれは普通のことのように思える。いわゆる気持ちを伝える文章というものは、明るい単語を使って暗い感情を伝えることができる。

今回、試みようとしているのは、その文章が伝えようとしているものが、感情でもなく、思考でもないものであるということだ。感情でも思考でもないそれを、無の雰囲気、あるいは五次元的周波数と仮に名づけてみよう。

その雰囲気、その周波数が心のなかに一定以上、伝達されたとき、人は悟る。

それは、悲しみの雰囲気が、人の心の中に一定以上蓄積されたとき、人は泣くのと同様の作用である。

火垂るの墓を見たとき、人は泣きまくる。それはあの映画が物凄い量の悲しみの雰囲気を伝える作用を持っているためである。

それと同様に、ものすごい量の、五次元的な雰囲気を伝える作用を持った文章があったなら、それを読んだ人は、何らかの五次元的な反応を得るだろう。

じゃあ、そんな文章を書くにはどうしたらいいのかというと、悲しい文章を書くのと同様の手順で書けばいいということになる。

表現したいものをまず自分の心のなかに深く感じるのだ。悲しみなら悲しみを。五次元的雰囲気であれば五次元的雰囲気を深く感じるのだ。

そうすれば自ずとそれを書くこともできるようになっていくだろう。

書きたいそれ、それは、物事や、色、形、感情、思考ではなく、それらが浮かんでいる虚空である。

映画の内容ではなく、映画のスクリーンそのものを書きたいのである。

それは無への無軌道な突進のように見えて、実は人類の表現の歴史、芸術の歴史とは、常にその目に見えない虚空を中心として回転してきたのであり、その虚空こそが目に見えるすべてをジェネレートしているはずである。

となれば、その目に見えない中心点をダイレクトに表現したいとするのは、当然のことである。

もしかしてそれは神の存在証明のような虚しい作業なのだろうか。

そんなことはない。

論理によって虚空の中心点を表すことはできないが、雰囲気によってそれを表現することはできる。

無の雰囲気というものがあるのだ。

五次元の雰囲気というものが存在しているのだ。

その雰囲気を放射しまくるのがこのブログの目的である。

通常、人はその雰囲気を恐れてきた。

コズミックホラーという言葉がある。それは、超次元的雰囲気、無の雰囲気に接した人が感じがちな恐怖を表した言葉である。

それは超次元的意識を前にして、日常的意識が感じる、自分の存在が危うくなることへの恐怖である。

しかし本当は何も怖くはない。別に自分の存在は危うくはならないからだ。自分のパーソナリティは、無あるいは無限として感じられる、時間と空間と論理を超えた超次元に接しても、消えてなくなるわけではないし、破壊されるわけでもない。

しかしなぜか人間には、超次元的な雰囲気を嫌悪する、あるいは恐れるという習性があるように感じられる。

『幼年期の終わり』『ブラッド・ミュージック』などの有名なSF作品を読んでみれば、超次元=まじで怖い、非人間的な恐ろしいもの、という観念がSF作家たちの間に蔓延していることが感じられる。

しかし一方で『レンズマン』シリーズに代表されるような、ひたすら拡大、超越、インフレーションを志向する方向性の、超次元受容性のあるSF作品も沢山存在しているので、ひとえにSF作家=超次元的雰囲気への恐怖症を持っていがちな存在、などというレッテル貼りはやめるべきである。

だが特に日本のSFには、超次元恐怖症をベースとした作品が多いように感じられる。『神狩り』とかね。そういえば私が途中まで書いてまだ書き上げてないECCOという作品も、そんなテーマの話だった。

と、ここまで書いてふと気づいたが、文章に五次元的雰囲気を付与するとは、ひとえにこの、人類の潜在意識の奥深くに焼き付けられている、超次元的雰囲気への恐怖症や、超次元的意識への敵意のようなものを緩和していく文章を書くということなのではないか。

なぜ人は簡単に悟らないのか。

なぜ人は簡単に超意識状態にならないのか。

それは単に、人が潜在意識的に、その意識状態を恐れ、それと敵対し、それに対してビビっているからなのではないか。

私の知人友人両親へのヒアリングにようリサーチの結果、多くの人は、無限なるものへの敵対心を持っており、しかもその無限なるものに迫害されている、あるいはそれとの敵対状態にあるという無意識的思考パターンを持っているということが判明している。

 

多くの人は、無限から逃げるために、地面に穴を掘り、その穴の中、暗闇の中に逃げていく、逃げている、そんな気分を無意識に抱えながら、意識の中を忙しくしている。

その忙しさは、逃げるためだ。

何から逃げようとしているのか。それは無として感じられる無限からであり、超次元からであり、自分の本質からである。

しかし忙しさの中で眠り、闇の迷宮の夢に包まれながらも、上の方から、もう忘れてしまった、しかし本来は自分はそれとずっとひとつだった気がする、でも今はもうそれがなんだったのかよくわからない、そのなんだかよくわからないものが、この闇の迷宮の奥深くにまで自分を追いかけてやってきている。

過去に自分が、それを存在するものとして認識することのないように『無』というレッテルをそれに貼り、世界の中に存在するものではないとして、世界の外、意識の外に追い出したそれが、今、自分を追いかけてきて、自分をつかまえ、抱きしめるために、すぐそこまでやってきており、その透明な手は、もう自分のすぐ近くにまでやって来ているような気がしている。

そう、その無限からやって来る高次元のエネルギーは、すぐそこ、いまここにまでやってきている。

それは怖くないよ、むしろ安全で朗らかなものだよ。

そういったことを、こういった場にどんどん書いていけば、人は、そして私は、より五次元的意識とフレンドリーになっていくことができるであろう。なぜなら意図を持って書かれた文章はすべて、人の意識を変え、人の現実を変える力を持っているから。

昨日、私、凄い五次元だったよ、と君が言ったから、明日も明後日も五次元記念日