意識がある臨界点を超えて成長するとき、二極性を離れようとする運動が始まる。

二極性とは善悪や苦楽など、対立する二極に物事が分化した状態である。

二極性を離れようとするときに注意すべきこととして以下の点があげられる。

それは、『二極の対立を無効化しようとするのではなく、その二極の対立構造を維持したまま、それらの根底に存在している、より大きな意識の構造へと、意識を拡張する必要がある』ということだ。

それは、二極の対立構造を破壊、あるいは改善しようとするのではなく、その二極を包んで超える、より高い包括的な意識状態へと、自らの意識を拡張するということだ。それによって、意識は二極性を離れることができる。

これは非常に難しいことである。

二極性を離れようとするとき、往々にして人は、すでに存在している善悪や苦楽の境目を無視することによって、それを無効化しようとする。だがその試みはうまくいかない。

悪や苦として認識しているものが眼前に存在していないように振る舞うとき、それは単に無意識化に抑圧されることになる。

善悪の境目を無効化しようとするあらゆる試みは、いわゆる前後の錯誤を引き起こし、意識を成長させるどころか退行させてしまう結果をもたらす。前後の錯誤とは、超越と退行を混同することである。成長と退化を混同することである。

人はもともと善悪の区別を知らなかった。

善悪の区別を知ることで人は大人になり、その分、意識は成長した。

ここでせっかく知った善悪の区別を、無かったことにしようとすることは、当然のことながら、大人が幼稚園児に逆戻りすることであって、意識の退行であり、それは成長の真逆であり、退化である。

つまり、『二極性を離れる』とは、悪いことは悪いと認識でき、良いことは良いと認識できた上で、それらを超越する必要があるということだ。

そして超越とは、すでに知っていることを無効化することではなく、その認識を含み、維持した上で、それを包んで超えるということなのである。

そしてそれは超次元方向に意識を伸ばすことによって、善悪、優劣、右左の軸についての三次元的な認識を超えるということなのである。

意識を四次元的な、あるいは五次元的な方向へと延長させることにより、三次元的な認識を超えることができる。それにより人はやっとのことで二極性を離れることができる。

そこに至り、人は初めて、悪が、苦が、二極の軸の中に保存される三次元的世界を離れ、より自由で広大な世界を認識することができる。そしてその認識により、そのような自由な世界を実際に生きることができるようになる。

それは昨日まで可能だとは思えなかったことが可能になり、昨日まで自分を閉じ込めていた二極性の檻の中から解放されるということである。