娯楽を二種類に分けることができる。

  • 上下運動による娯楽
  • 存在することによる娯楽

『上下運動による娯楽』は、何らかの種類のアップダウンによって面白さを作り出す。

物語を例にとると、そこでは苦楽をアップダウンの軸とすることが多い。苦がダウンで、楽がアップである。楽な状態から苦しい状態へとダウンし、そこからまた楽な状態へとアップするという上下運動がそこにはある。

もう一方の娯楽である『存在することによる娯楽』は、存在することそれ自体から生じる面白さによって、面白さを作り出す。それは意識が存在ことに必然的に付随する娯楽であり、穏やかかつ無限に高まっていく性質を持っている。

この両者の娯楽はどちらか単体で存在することはできない。『上下運動による娯楽』の背後には、『存在することによる娯楽』の面白さが常に背景放射としてあり続けている。ただしその表面で目を引く上下運動によって、『存在することによる娯楽』は覆い隠されていることが多い。

よって、『存在することによる娯楽』を知覚するためには、『上下運動による娯楽』の振幅を一時的に減らす必要がある。

たとえば、静かに凪いだ海のようなものを前にして佇めば、『存在することによる娯楽』から生じる喜びがしみじみと感じられるかもしれない。

『上下運動による娯楽』も、もともとは『存在することによる娯楽』から生まれたものだ。

『存在することによる娯楽』は、ほとんど知覚できない、精妙な振動のような喜びである。その精妙な振動が目に見える形にまで増幅されたものが、『上下運動による娯楽』である。

上下運動による娯楽は五感によって感じることができる。しかしその源は『存在することによる娯楽』である。

『存在することによる娯楽』を五感によって捉えることは難しい。しかしそれは、五感よりもより根本的な感覚である、『存在感覚』によって捉えることができる。

ここに今、意識が存在している。

それを感じるとき、意識は、存在することの娯楽とひとつになっている。

そのとき意識はその娯楽の中で精妙に振動し、喜びに震えている。

虚空の中に静かに発せられているその振動は、時間の中で増幅され、やがて目に見える、五感で感じられる上下運動となって意識のもとに回帰し、その意識を物理的に楽しませるだろう。