昭和的世界観、少年漫画的世界観というものがある。

それは、『望みのものを手に入れるためには、努力、根性、苦しい戦いを乗り越えねばならない』という観念に基づいた世界観である。

この世界観に基づき、あまたの少年漫画の主人公は、終わらない戦いを続けてきた。

その戦いに彼らはおおむね勝利を収めてきたが、勝ったとしても得るものは少なかった。しかも勝ったあとには必ず新たな、より強大な敵が現れた。

そんなものを読んで育ってきた我々も、もしかしたら終わらない戦いを続けているかもしれない。今このときも。

ところで、エンドレスバトルな少年漫画的世界観に対するアンチテーゼとして、『青い鳥』という物語がある。

その物語は、『何か良いものは、今ここにある。それに気づくだけで今すぐそれを得ることができる』という観念を表現している。

青い鳥のような、その存在に気づくだけで得ることのできる何か良いものは、まだ我々に気づかれることなく、我々の生活の中に多く眠っている。

それは地面に伏せられた魔法のカードのように、我々の手に取り上げられ、めくられることを待っている。

しかしそのようなカードを興味本位で拾い、めくろうとする試みは、昭和的世界観、少年漫画的世界観とバッティングすることが多い。

なぜなら生活の中で、なんとなく気になったものや、好奇心を感じたものや、ワクワク感を感じる対象に、ふと軽く接してみるという行為は、ぬかるみの中を重い足を引きずって前進する苦闘的生活と矛盾する行為だからである。

長年に及ぶ苦闘の中で、人は真剣になっている。苦闘の中で人は真剣だから、その戦いの勝敗に何ら関与しそうにない、地面に落ちている謎のカードなどめくってみようとはしない。

そこかしこでキラキラと輝いている何か面白そうなものを無視して、人はまた前を向き、歯を食いしばり、戦いの連続に身を投じる。

だが戦いの最中、苦闘のさなかにも、視界の隅に、いつもチラチラと、かすかな輝きが見えていたはずだ。あなたに拾われるのを待っている、何かキラキラとしたものが。

それを手を伸ばすとは、日々の生活の中で、『こうしなければ』『ああしなければ』という思いを、ごくわずかな時間でも手放すということである。

そして、ひとときだけでも、義務や不安を忘れたフラットな心で、いまやってみたいこと、いまワクワクすること、それをしたら面白そうなことを、気軽にやってみるということである。

その行為には何の意味も感じられないかもしれない。しかしそれでいいのだ。その行為には、昭和的世界観、少年漫画的世界観を遙かに越えた光の意義が隠れている。

それは固まった心を柔らかくし、生活に新風を呼び込み、人生の隠れた意味を人の心に少しずつ明らかにしていく。

喜びは戦いの果てにあるのではない。それは今このとき、見つけられるのを待っている。