現実縮小装置とは、我々の意識に、VRゴーグル、たとえばOculus riftのように被さっている装置である。それは意識にあまりに近いところに長時間被さっているために、我々はそんなものが自分の意識を覆っており、自分がそれによって縮小された現実を体験しているということを忘れている。
その現実縮小装置は、ときに『エゴ』と呼ばれる。
それはまた、この本では、ユーザー・イリュージョンという言葉によって表されている。
これは2002年に発売された本である。その当時、何か自分の探求についてのヒントが得られるのではないかと思って読んだ記憶がある。内容は実のところ、詳しくは覚えていない。ただ、とても面白く、その後の私の探求にとって極めて示唆深いものであったという記憶がある。以下、今の私がユーザー・イリュージョンという言葉について、思うところを書いていく。
ユーザー・イリュージョンとは、ユーザーの前に表示されているイリュージョンである。
ユーザーとは、果たして誰のことだろうか?
それは、今、この文章を読んでいる、あなたである。
ユーザー・イリュージョンとはなんだろうか?
それは、あなたの知覚スクリーンに表示されている幻のことである。
つまり、あなたが知覚しているすべてのもの、それこそが、ユーザー・イリュージョンなのである。
それにはまず五感が含まれる。
いまここに表示されている文字、聞こえてくる周囲の音、肉体の感覚、胸に出入りする呼吸の感覚などなどの五感がユーザー・イリュージョンに含まれる。
次に、ユーザー・イリュージョンに含まれるのが、思考である。この文章を読んで頭の中を流れていく様々な考え事。浮かんでは消える、あるいはしばらく消えずにあなたの意識を捉え、意識とからみ合って自動生成を続ける思考。そういったものもユーザー・イリュージョンである。
次に、感情だ。ポジティブな感情、ネガティブな感情、強い感情、弱い感情。今、意識的に、あるいは無意識的に感じているすべての感情がユーザー・イリュージョンに含まれる。
その他、心に浮かぶイメージや、記憶などもユーザー・イリュージョンに含まれる。つまりあなたの意識が知覚しているものすべてがユーザー・イリュージョンというわけである。
意識というユーザーの前に、パソコン画面が表示されているとする。
その画面には様々なアイコンや、ウィンドウが表示されている。それらがユーザー・イリュージョンである。
これら主観的な知覚の構成要素をひたすら細かく分析していったものが、初期の仏教でのアビダルマなどと呼ばれる体系なのではないだろうか。
これもユーザー・イリュージョンと同じ頃に買って読んだ本だ。
当時、私は大きな岐路に立たされたいた。
実体験として、今まで自分だと思っていた存在が、実はユーザー・イリュージョンに過ぎないということを、わかってしまった。
この滝本竜彦という存在、これが実は、私の意識に被せられた縮小現実装置だとわかってしまった。
それは恐ろしいことだった。
まず何が恐ろしいかって、世界の誰ひとりとして、そんなことを考えていないようだったからだ。
テレビでは音楽ではさまざまな小説では、さまざまなドラマが書かれている。
しかし、『自分は、ユーザー・イリュージョンである』という気付きと、それへの恐怖は、通常のドラマとは違うレイヤーにあるドラマであり、それを直接的に描いたものは私が見回す限り、私の周囲には存在していなかった。
通常のドラマは、特定のユーザー・イリュージョンと、他のユーザー・イリュージョンの間に生じる関係性を問題としている。
例えばこの滝本竜彦というユーザー・イリュージョンと、他の誰々というユーザー・イリュージョン間の、恋や憎しみなどなど。それらが苦しんだり、楽しんだり、愛しあったり、死んでいったりということを、一番の問題としている。
それがこの世界だ!
しかし!
それは、本当の問題ではない!
なぜなら、それはユーザー・イリュージョンだからである。
本当の問題は、この滝本竜彦なら滝本竜彦というパーソナリティが、自分ではないと気づくことである。そして、気づいたなら、『真の自分』へと、アイデンティティを移行するために、ユーザー・イリュージョンへの同一化をほどいていくためのワークを続けるということである。
ここにこそ、真のドラマがある。
真の、という言い方が悪ければ、まぁ、意味のあるドラマが存在するというところだろうか。
そういった意味では、たとえばラヴクラフトの小説の一部作品など、あれは実は、なかなか真のドラマに近いものが描けていると私には感じられる。
いわゆるコズミック・ホラーというもの、足元が抜けるような恐怖というのは、まさに、自分がユーザー・イリュージョンであったと気づいた時の、何もかもを失うような感覚に近いと思う。
そのコズミックホラー感、バッドトリップ的恐怖というのは、自分がエゴ、すなわちユーザー・イリュージョンと深く同一化していればいるほど、強く感じられる。
なぜならそれは、自分であるはずのこの自分が、実は無であると、論理的認識によって実際に明瞭に体験してしまうということだからである。いわばそれは、生きながら幽霊になるような体験だ。
まだ二十歳ちょっとの私は、そのような体験をして、マジでビビった。
しかしそちらの方角に何か、とてつもない宝が眠っていることはわかっていた。
しかし、世の中の皆、私よりも圧倒的に知恵があり頭の良い沢山の人々が、誰も何も、これらのことについて真剣に向き合っていないように感じられるのが気がかりだった。なぜなら、これこそが、何より重要なことであるはずだったからだ。
この世で、通常の人間が、これこそが自分であると思っているその対象は、実はその人そのものではないということ。自分だと思っているものはユーザー・イリュージョンであるということ。なぜこのような最大級のとてつもない重要事項について、テレビで放映されていないのか私には理解できなかった。
そしてその謎を解明するために、上記のような沢山の本を読んだ。
結果、以下の様なことがわかった。
- 私の発見「俺は実は滝本竜彦というパーソナリティそのものではなかった! それを含みながらも、それを遥かに超えた何かが俺だった!」というものは、実は人類の一部にとって超既出なものであったということ。
- そのような気付きを得るための方法と、その気づきを生活の中に定着させるためのメソッドは、実は全文化の背後に横たわっているということ。
- ただ、この件に関して、意識的に気づいている人間と、そうでない人間がいるということ。また、いわゆる大衆文化においては、この『ユーザー・イリュージョンへの気付き』は、なかなか語られることはなく、語られるにしても象徴的、暗喩的な語り口によって語られるのみであるということ。
- 過去においてこの知識は、エソテリックなものとして、つまり密教的に、さまざまな文化の影で密かに隠されて受け継がれてきたものであり、この隠された知識から一般社会へと、その知識が少しずつ流入していく細い流れが存在しており、それこそが文化の進歩の原動力となっていたということ。
本来の仏教はずっとこのことを問題としていた。日本で流行している仏教の文章にも色即是空であり五蘊皆空であると書かれている。それは滝本竜彦が、またあなたのパーソナリティが、ユーザー・イリュージョンであることを示している。
禅は自分がユーザー・イリュージョンであることに気づくための、心の練習法である。
禅の前部門である、あらゆる道、茶道、華道、弓道、その他諸々、日本的な修行のメソッドは、すべて、自分のパーソナリティがユーザー・イリュージョンであることに気づき、自分のアイデンティティを、そのような幻から、幻ではない真我へと移行するための練習法である。
この十年ほどずっと、私は大声で言いたかった。
私のパーソナリティはユーザー・イリュージョンであることを。あなたのパーソナリティは、ユーザー・イリュージョンであることを。
ゆえに人間社会のあらゆる問題は、大いなる錯覚の上に基づいているということを。
しかし言えなかった。
言うことが恐ろしかった。
それを言うことは、一般社会への反逆のように感じられたからだ。なぜならその気づきは、人間社会に流通しているほぼ全てのドラマを、錯覚に基づいた無意味なドラマであると認識させる気づきであるからだ。それは人が大いに大事にし、それと自らの価値を同一化しているあらゆる知覚対象には、それ自体なんの意味もないと認識させる気づきだからだ。それはその気づきを得た者を、この人間社会の、ユーザーイリュージョンに基づく、縮小現実に基づく、ロールプレイングゲーム、巨大なMMORPGからログアウトさせる道の上を歩き始めるよう促し、導いていく、聖なる気づきだからだ。
その気づきに関することを声高に、直接的に語れば、石を投げられて殺されるんではないかというような、不合理な無意識下の恐怖もあった。なぜならその気づきは、人間社会の全てを変える気づきであり、人間をあらゆる不自由から解放させる気づきであったからだ。
しかし今、それらの恐怖を五割ほどは解消できた私はいくらでも以下の様なことが言える。また、皆が声を出してそのことについて大声で語り合うのがこれからの時代であると私は確信している。だからいくらでも以下の様なことを書く。
これを読んでるあなたが、これこそが自分であると思っている『それ』は、実は、ユーザー・イリュージョンです。
あなたは、それではありません。
本当のあなたは、それを含んで超える、もっともっと無限で偉大なものです。
時を越え、あらゆる形態を超えた、すべてとひとつのもの。
それがあなただというわけです。
あなたが一日も早く自らの異様なまでの偉大さに気づき、それに畏怖し、戦慄し、最終的にはそれに安らぎますように。