「少年漫画的世界を乗り越える」その1はこちら

少年漫画の世界では、『ヤンキー』という粗暴で人間の心を持たない者が、『美少女』という美しく価値あるものを無法に奪っていくという事象が、強迫的に繰り返し描かれる。そこには何らかの、日本人の集合意識レベルに根ざしたトラウマの存在があるに違いない。

『ヤンキーに美少女を奪われる』という体験は、それが読書の上のものであっても苦痛なものである。なぜ読者である我々はその苦痛な感情を繰り返し体験せねばならないのだろうか?

それはもちろん、その背後にPTSD、精神外傷後ストレス障害が横たわっているからである。そこにPTSD的な何かが隠れているからこそ、我々は『ヤンキー』に『美少女』を奪われるという苦痛を何度も繰り返し体験してしまうのである。

ではそのPTSDは何によって生じたのかといえば、もちろん敗戦だ。

過去、日本がアメリカに負けた、すなわちヤンキーに負けた、そしていろいろな価値あるものを奪われた。。。

そんな未だ癒されていない日本人の集合無意識上のトラウマこそが、ヤンキーに美少女を奪われるという物語を、二十一世紀になっても漫画の上に再演している原因なのである。

ここでの『美少女』は、おそらく日本的な、非物質的なものに価値をおく、何か精神的な価値のシンボルではないかと思われる。。。

それは無残に奪われ、花と散らされてしまったのだ、人の心を持たない粗暴なヤンキーによって。。。

トラウマというものは癒されるまで何度も何度も繰り返し、その苦痛の体験を意識上に再演する性質を持っている。しかしその苦痛があまりに直視したくない、辛すぎると感じられるものであるとき、その苦痛の記憶は抑圧され、さまざまなシンボルによって捻じ曲げられ、形を変えた上で、意識の表面に上がってくる。

それらシンボルの奥に隠された、過去の記憶、そして癒されていない感情を直視し、そこに強い愛と優しい光を送ることで、それが個人的なトラウマであっても、集合意識レベルのトラウマであっても、なんであれそれは癒される。

それにより、奪っていったヤンキーは許され、奪われた美少女は許され、弱かった自分は許される。そして新たな物語が描かれ始める。

だがそれが真に癒されるまで、古びた、壊れたレコードのような物語は何度でも再演され、『美少女』は『ヤンキー』に奪われる続けるだろう。それを防ぐために我々は漫画の上のヤンキーを憎むのではなく、主人公に倒されるヤンキーに溜飲を下げるのではなく、むしろそのシチュエーションと登場人物全員に、無条件の愛を送らねばならない。そうすればいずれ日本人の集合無意識は癒されていくだろう。物語という心の窓を通して。

憎しみと対立は心の傷の抑圧を深めるだけだ。

だが愛は全てを貫いて、深い心の傷に届き、それを癒していく。

光の小説では、このような『ヤンキー・美少女問題』に最終的なケリをつけるべく、ヤンキーと主人公の間の美しい和解が描かれています。

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国家、民族レベルでの精神分析というアイデアが豊富な実例と共に楽しく紹介されてる本です。