人間、誰しも傷つきたくない。
しかし、この今の人間社会の中では、まったく傷つくことなく、自分が望む活動をすることは難しい。何かやりたいことをやるとき、実際に傷つかなくとも、傷つく可能性は常についてまわる。
もちろん、傷つくことを恐れていては何もできない。
自分がしたいことをするには、傷つくというリスクを受け入れる必要がある。
では、どうすれば傷つくリスクを受け入れることができるのだろうか?
気合と根性だろうか?
確かに気合と根性によって、リスクが伴う行動を、行うことができるようになる。
だが、そういった少年漫画的なパワーでは、いずれ傷だらけになり、「もうこれ以上は、傷を追うことに耐え切れません」という時がやってきそうである。
それでもさらに無理をして、気合と根性で、物事を進めることもできそうであるが、そんなことをして限界を超えた傷を負ってしまったら、人は鬱病になってしまうのではないだろうか?
リスクを恐れることは、自分を傷から守るために必要なメカニズムであり、それを無視することは、本当は、とても危険なことなのではないだろうか?
とはいえ、やはり、リスクを恐れて、安全と思えることばかりやっていても、つまらない。せっかくこの世に生まれてきて、ここに存在しているわけだから、できれば自分の可能性を百二十パーセント、ハジケさせて生きたいものである。
といっても、やっぱり傷つくのは怖い……だけどハジケたい……。
そんな防御本能と、進化衝動の板挟みに人は立たされている。このような、相反するものの合間に立たされたとき、重要なのは、もちろんアレだ。センターウェイ、すなわち中道だ。
変化の乏しい、凝り固まった状態に居着くのではなく、かといって、過激な、エクストリームな方向に偏るのでもなく、変化と安定という二極の、ちょうど中央部分を歩いて前に進もうという試み。それが中道だ。だがそれを歩くことは本当に難しい。
一方の極にある「安定」は、常に人を引き寄せ、そこに人を定着させようとする一種の重力を発している。その重力に囚われたとき、人は変化を恐れ、惰性的な安定の中に閉じ込められ、魂を重力に引かれた人間になってしまう。
その反対の極にある「変化」もまた、一種の磁力を持って人を引き寄せる。変化の中毒に陥ってしまったとき、人は静けさや安らぎを恐れ、感情の過剰なアップダウンや、物事への過度の没入を求める。それは麻薬中毒のようなものだ。
この両極の、ちょうど中央部分に、「中道」なるものが存在しているはずだが、そのポイントは目に見えない。また、両極からの重力および磁力の強さは常に移り変わるため、その力が拮抗する中央のポイントは、常に左右に揺れ動いている。そのバランスポイントを見つけ、そのセンターウェイに留まって前進し続けることは、極めて高度な、意識的な注意を必要とする生活スタイルであると思われる。それはときに「カミソリの刃の上を歩むようなもの」という喩えによって語られる。
*
中道の話はさておいて、どのようにすれば、リスクを取ることを恐れず、やりたいことを、やれるようになれるか、という最初の話に戻りたい。
その一つの方法として、「心に負った傷を、癒やし、回復する方法を学ぶ」というものがある。
リスクを取るとは、ドラクエ等のロールプレイングゲームで言えば、安全な町の外に出て、荒野でモンスターと戦い、経験値を得るということだ。ウィザードリィで例えれば、地下迷宮に潜り、そこに潜んでいる魑魅魍魎と戦って経験値を得るということだ。そして町に帰って宿屋で寝て、レベルアップして、傷ついた体力を癒やし、そしてまた荒野に、あるいは地下迷宮に潜っていくという繰り返しを継続するということだ。
そのような継続的な冒険行為をすれば、当然、レベルはいくらでも上昇していくのは当たり前の話である。ゲーム内においては。そして、おそらく、この人生においても。
だが、ここで考えてみよう。もしゲームの中に、モンスターと戦ったあと、傷ついて失った体力を回復するすべが存在していないとしたら、どうなるだろうか? そのとき、本来であれば経験値を獲得して、成長するための行為であるはずの戦闘は、絶対に避けるべき危険なものとなる。なぜなら冒険によって負った傷を回復できなければ、いずれ限界が来て、死んでしまうからだ。
よって、冒険をし、リスクを取り、経験値を獲得し、レベルアップするために、無くてはならないものは、傷を癒やす方法の存在である、ということがわかる。
そうなのである。リスクを取る、すなわち、傷つく可能性のある行為をするために必要なのは、気合でも根性でもなく、「傷を癒やす手段」だったのである。
傷を癒やす手段さえあれば、もはやモンスターとの戦闘は怖くなくなる。むしろそれは、経験値を得るための、自分にとって利益をもたらす体験となる。傷を癒やす手段さえあれば、「リスクをとり」「冒険し」「レベルアップし」「傷を癒やし」「次の冒険を始める」という、無限の成長のサイクルへと我が身を躍らせることができる。
だが傷を癒やす手段とは、一体なんなのだろう?
ゲームの中では、宿屋に泊まれば、どんな傷も回復する。
この現実生活の中で、冒険のさなか、石につまずいて転んだりして、物理的な傷を負ったのであれば、消毒液と包帯があれば、それを治すことができる。
だが、この現代社会において、冒険の中で人が負う傷は、何より、心に関するものだ。リスクをとって行う冒険の中で、人が負う傷、それは心に生じるものなのだ。
我々が生きる現実生活の中にもホテルはあるし宿屋もあるし、病院もある。だが実際の人間が、現実生活での冒険によって、もっとも負いがちな傷、それは「心の傷」なのである。
だから、心に生じる傷を治す手段、それこそが、リスクをとって冒険するために、何より必要なものなのだ。
心に生じる傷を、治すことができるなら、我々は、いくらでも、恐れずに冒険することができる。
*
では心の傷を治す手段とは何なのかをリストアップしてみよう。
それは当然、いろいろある。
- 温泉に浸かる
- 時間が解決してくれるのを待つ
- ひたすら寝る
- エトセトラエトセトラ……
- そして瞑想とヒーリング
このホームページでは、瞑想とヒーリングを、心の傷を治す手段としてプッシュしていきたい。なぜならそれは、他の、物理的なレベルに存在している手段とは違い、自分の心の中に、ダイレクトアプローチすることができる手段だからである。そのために、とても効率よく、心の傷を治すことができるからである。
心の傷は、当然の事ながら、膝小僧にあるのでもなく、背中にあるのでもない。心の傷は、心の中にある。
だが、心の中とは、どこにあるのだろう?
どうやったらそこに触れるのだろう?
もし、体のどこかが痛かったら、温かい手を、そこに当てて、優しく撫でてあげたらいい。あるいはそこに、そっと包帯を巻いてあげたらいい。
でも、心の中の、どこかが痛かったら、どうやって、痛いところに、優しい手を差し伸べてあげたらいいのだろう?
まずは目を閉じることだ。
そして自分の感情や感覚を感じることだ。そうすれば、自分の心に接することができる。
もし自分の心に接したとき、その心が傷ついていたなら、人はそのとき、苦痛を感じるかもしれない。
だが、心の中を癒やすにはまず、自分の心に意識を向け、それを感じる必要がある。それを見て、触ることができれば、いずれそれを癒やすことが出来る。
心の中に意識を向け、それに集中すること。それが瞑想である。
心の中に意識を集中し、そこに優しさや、愛を送り込むこと。それによって心の傷が癒やされること。それがヒーリングである。
これは実のところ簡単な作業である。心は無限の回復力を持っている。だからどのような傷も、完全に癒やすことができる。
それを知り、実際に自分を癒していく能力を得て、それを日々の生活に活用していったとき、人はいわば、冒険で負った、傷を癒やすための、安全な宿屋を得ることができたのだと言える。
そのような回復手段を得たとき、リスクをとるということは、そんなにも恐ろしいことではなくなっていく。
そして、傷を追うかもしれないけど、何かのやりたいことやるということを、人は続けていけるようになる。しかも、安定して、バランスよく、センターウェイを保ちながら。
なぜなら、ヒーリング能力に裏打ちされた安心感と共にリスクをとるとき、人は気合や根性を使わず、平常心でリスクをとることができるからである。平常心でリスクをとるとき、人の心はバランスを保ちながら、惰性的惰眠に陥ることなく、過度のエクストリームにも陥ること無く、中道を前進することができる。その先には可能性が百二十パーセント、ハジケた人生が広がっているはずだ。
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