前回のエッセイで地蔵というキーワードが登場した。それについてもう少し書いてみたい。
人はどのようなときに地蔵になるのかというと、それは主に、アイデアの実行や表現を押しとどめてしまったときである。
何か実行したい、あるいは表現したいアイデアがあり、それを実行、表現しなかったとき、人は地蔵になってしまう。
このとき人は自分で自分に、石化の魔法をかけたということができる。
石化の魔法は重ねがけすることができる。
つまり、アイデアの実行を自分で妨げるごとに、地蔵状態は固く、深くなっていく。
しまいには、その領域で、まったく身動きがとれなくなるまでに、人は硬い地蔵になりうる。
このような、硬く固まった地蔵状態を、魔法のように解除する方法はあるのだろうか。
ひとつ思いつくのが「逆努力を続ける努力をする」ということである。
それはつまり、努力しないという努力である。
逆努力、それは子供のように、重さの無い、アイデアの表現を妨げるもののない、オープンな心を取り戻すための、何かしらの行動である。それは行動でありながら、努力によってなされるものではない。むしろ重力に引かれて落ちていくような、自動的な動きである。
アイデアの直接的な表現を妨げる要因は、過去、何かしらの、間違った努力によって学ばれたものである。
よって、それを解除するには逆努力が必要になる。
しかし、とてつもない時間に及ぶ、間違った努力によって、自分を硬い地蔵にしてしまったとき、一度や二度の逆努力によって、それを解除することはできない。よって、逆努力を継続的に、意識的に、なんども行なって、徐々に、自分の石化した心を溶かしていく必要がある。
よって、ここではそれを、「逆努力を続ける努力をする」という何か矛盾の感じられる表現によって言い表している。
たとえばフリーコミュニケーションという領域において、地蔵状態を解除するために、逆努力を続ける努力をするとは
具体的にはどういうことだろうか。それは、街に出て、魅力を感じた人、惹きつけられる人に、惹きつけられるままに、率直に声をかけるという行為を繰り返すことである。
逆努力とは努力しないことだ。努力とは頭であれこれ考えて、状況をコントロールしようとすることだ。状況をコントロールしようとするその習性を外すためする行動が逆努力である。
逆努力をする必要性を感じ、人がそれを実際に、意識的に行い始めたとき、その人の行動は、いわゆるひとつの、禅っぽくなっていく。
人生には努力をするステージと、努力によって学んだものを意識的に忘却するという、逆努力のステージがある。
哲学者のニーチェは前者のステージを「駱駝状態」と呼んだ。駱駝は重い荷物を運んで砂漠を歩く。しかもその重い荷物はどんどん増えていく。ラクダが運ぶ荷物とは、努力によって学ばれる、さまざまな観念の集合体である。
荷物が重すぎて、自由に歩けなくなってしまったとき、あるとき人はそのような荷物を捨てる必要があると気づく。そのとき人は逆努力ステージに入る。そのステージをニーチェは獅子状態と呼んだ。獅子はそれまで自分が抱えてきた重い荷物を爪と牙でひとつひとつ破壊していく。それは心の中にある、古く重い観念群を、より軽いものへとアップデート、あるいは消滅させていくという作業である。
その作業は、各種のヒーリングや、瞑想、あるいは東洋的な、道的、禅的な、逆努力のためのシステマティックなワークの中で効率的に行うことができる。ヒーリングテクニックの中でも、特にシータヒーリングは、このような、古い観念の放棄、あるいはアップデートを行うことに重点が置かれている。
そのような逆努力の努力が実ったあとには何が待つのだろうか?
瞑想・スピリチュアル業界では、個人的アセンションが待つと言われている。フリーコミュニケーション業界では、コミュニケーション領域における、魔法のような素晴らしい体験と深い満足が待っていると語られている。昔の仏教ではその後に悟りがあると言われている。哲学者のニーチェは、獅子はその後、幼子になると言っている。幼子は何にも遮られることなく、自由にアイデアを生み出し、遊びのようにそれを表現する。その幼子のことをニーチェは超人と言っている。