人間が人生の中で抱えるすべての問題は自意識に端を発すると言っても過言ではない。

自意識過剰、これが人類の大問題である。

自意識に邪魔されず、やりたいことをのびのびとやれたら、人生はどんなふうになるだろうか。どれだけエキサイティング度が高まり、成長と満足に溢れた人生になるか。創造性がどれだけ爆発することになるか。

しかし自意識が邪魔をするのだ。

何かいいアイデアが閃いてもそのアイデアの実行はだいたい自意識によって邪魔されるか、そのアイデアの純粋性が自意識によって捻じ曲げられ、もはや喜びも成長も真の創造性ももたらさない、自意識にとって安全だけど凡庸なアイデアへと変質してしまう。

そこで古来、人はこの邪魔っけなものである自意識を消滅させるための様々なメソッドを編み出した。

インドではそれはヨガという体系にまとめられた。仏教もそのたぐいだ。キリスト教はどうかは知らないが、少なくともイエス・キリストが人々に向かって喋ったオリジナルの話は、いかにして自意識から離れるかというテーマに関する実践的なアドヴァイスであったはずだ。

ところが面白いもので自意識には自己防御反応があり、イエスの話はおもいっきり捻じ曲げられ、むしろ集団の自意識を強める作用を持った物語へと改変された。そのように集団レベルでの自意識防衛反応の働きによって、本来であれば自意識を変容させていく作用を持ったアドヴァイスが、まるで逆の作用を持ったストーリーへと捻じ曲げられてしまうことは、人類の歴史の中ではあるあるネタのようである。

なんでそんなことが起るのだろう。それは人類の大半が、物事の本質であるエネルギーではなく、そのエネルギーが被っている『皮』の部分しか認識できないからである。

つまり物事の表面に『愛』とか『聖』とか、自意識変容作用を持っていそうなものの雰囲気を持つテクスチャーさえ貼られていれば、そのエネルギーの実質が『殺』とか『奪』とかであっても、人は容易にそれを、「あー、これは愛に関する何かなんだな」と錯覚して騙されてしまうのだ。

そしてそのようにして騙されたあと、さらなる複雑化が生じる。騙されていることに気づいた一部の者が、物事を以下のように定義し始める。

『愛とか聖とかっていうテクスチャーが貼られていたものは、実は殺とか、奪の本質を持っていた。ということは、その逆こそが真実に違いない。つまり、殺とか奪のテクスチャーを持ったものは、実は愛や聖に違いない!』

ここにおいて中二病が始まるのである。

中二病の様々なモチーフ、闇の堕天使とか、神殺しの剣、みたいなものは、すべて、闇のテクスチャーが貼られたものの中に、愛や聖の本質が隠されているはずであろうという、一種の論理的な憶測から生じている。

それは愛とか聖のテクスチャーが貼られたものへの幻滅から生じた考えであり、その逆のものの中にこそ愛とか聖の本質が隠されているはずであるという、論理的な裏読み発想による思考の産物である。

だがそれは結局、物事の中身を見て感じること無く、テクスチャーによってエネルギーの本質を判断しようという当てずっぽうの行為を続けているに過ぎず、やっぱりそんなことをしてもどうせすぐに騙されるだけだ。

本当に、愛とか聖とか、そういったエネルギーを持っているもの、つまりなんていうんだろう、本当の意味で、自分に優しい、自分にとって滋養のあるもの、それが何かを知るには、物事のテクスチャーを見るのではなく、その奥にあるエネルギーを直接的に感じなければならない。そして、自分のハートで、善と悪を、優しさと冷酷さを、与えるものと奪うものを、見分けなければならない。

だがエネルギーを感じるには大きな邪魔物があってできない。

その邪魔物、物事のエネルギーを直接感知するという人間の本能的な能力を妨げている要因こそが、自意識なのである。

自意識は生まれたあとで学習した、蜘蛛の巣のように絡まる思考と感情の糸によって編まれたネットワーク的な構造体である。その構造体は過去に学んだものから構成されている。

そのため、その自意識という構造を通して、今現在、目の前にあるものを解釈しようとしたとき、必ず、過去に学習した、「現実とはこういうものである」という色眼鏡を通して、目の前にあるものを解釈することになる。

その色眼鏡を通して物事を解釈する限り、物事に貼られているテクスチャーのラベルを読む以外のことはできない。

その色眼鏡がある限り、今現在、ここに存在している事物が発している、それ自体の、その感触を感じることができない。

その感触を感じようとする代わりに、その明確な感触を発しているものに貼られているテクスチャー、そこに書いてあるラベルを読み、それが何かを知ったつもりになることしかできない。人が自分の自意識を信用し、その構造体が自分であると信じている限りは。

だから物事の本質を知るには、自分の自意識を外さなければならない。あるいは、一瞬でも、自意識という色眼鏡を外して、物事を直接的に感知する方法を学ばなくてはならない。

そして今の時代、それは簡単だ。

自意識という重い鎖、狂った色眼鏡、現実縮小装置、それを外すためのメソッドは、道は、ものすごい沢山の種類、効果的なものがいくらでも世に溢れている。

一度その道を歩き始めても、また何度も何度も、テクスチャーを本質と勘違いし、それによって何度も何度も騙されてしまうだろう。でも絶対に必ずいつか真実にたどり着くという決意があれば、人は絶対にそこに辿り着くはずだ。

がんばってね!

Friends walking on the beach at sunset