今回もまた2008年頃の話である。
奇跡のコースを読み始めた前後ぐらいのこと。私は英語学習を始めた。なぜそんなものを始める必要があったのであろうか。

小学生だったころ、新聞でよく宣伝されていた『家出のドリッピー』というCD付き教材を両親に買ってもらったことがある。一枚目のCDの最初の数分は記憶することが出来た。確か、ドリッピー、ワズア、レインドロップ、という感じの文章で始まるめくるめくストーリーがその後続いていくはずだったが、どうにも興味を持てずCDのその先を聴くことはできなかった。

ドリッピーのCDと解説本は今でも実家にある。何年か前に実家のiMacに取り込んでみたが、やっぱり聴く気にならない。なんでだろうか? ストーリーの作者がシドニィ・シェルダンだからか。この人は当時やたら流行ってた作家で、父か母が買った本が家に転がってたので何冊か読んだことがあった。確か『ゲームの達人』とか言う本だったか。最後まで読んだが面白さはよく理解できなかった。沢山人が死んだ話だったと思う。

中学二年生のころには、英語検定3級に落ちた。2次試験の面接でGermany ジャーマニーを、ゲルマニーと発音し続けたことが敗因だったのではないかと思う。それ以来、私は英語学習というものに強い苦手意識を持ち続けた。

だが二十歳ぐらいに、『あぁこの広い世界を旅行してみたい』という欲求が湧いてきた。だが当時の私は物凄くインドア系の人間で、しかも強烈に人見知りするタイプであった。だから旅には出なかった。ただ家の中で、『旅に出るにはまずは英語を勉強しなくちゃあいけないな』と考え、英語学習のプランを立てるばかりであった。そしてプランは立て、二万円ぐらいの教材も購入したが、特にプランに沿った学習行動はせず、教材も使わなかった。結果、英語は身につかなかった。

だが2008年になり、私の中にまた英語熱が湧いて来ていた。なんでかわからないが、とにかく英語を勉強したくなった。しかも今回の情熱には行動が伴っていた。私は中野の駅前の書店で、英語の本を購入した。『単語耳』という本だ。私はそれについていたCDをiPhone3Gに取り込み、どこに行くにも聞いて歩いた。

その本は、中学生で習うような基本的英単語の発音を、自分で正しく発音することができるようになるための本だった。日本人が英語を聞き取れないのは、正しい発音で発生することができないからだ。そのため、英語を学ぶには、まず、単語の正しい発声を学ぶ必要がある。というわけでその本ではsheとかseaとかの基本的な単語の発音を、音声を聞いたあとで自分で繰り返すという練習をひたすら繰り返す。

私は中野の町を歩きながらひたすらぶつぶつと口の中で英単語を呟いた。たまに歩きながら、当時習っていた空手の形の練習をした。

それと平行して、奇跡のコースも学んでいた。そのため一時間に一回、どんな場所であろうとも、そこが動物園であろうとも、町の雑踏であろうとも、左手首のG-Shock(振動アラーム付き)がブルブルと震えるたびに、目を閉じて瞑想した。このどんな場所でも瞑想するエクストリーム瞑想のスキルは、奇跡のコースによって得ることができた貴重なスキルである。

私は散歩しながら空手の形の練習をしつつ英単語を口の中で呟きつつ、腕時計が振動すると立ち止まり目を閉じて瞑想した。

また、当時、私の中では強いオナ禁ムーブメントが巻き起こっていた。私は奇跡のコースを学びつつ、オナ禁をしつつ空手&筋トレをしつつ、英語学習をしつつ、虎視眈々と何かを狙う毎日を過ごした。何を狙っているのかはまだよくわからなかった。

man is entering the white void

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