短編小説、タートル・イン・ザ・バルドゥを書いた後日のこと。

私はある日ひょんなことから、『A Course in Miracle』という不思議な本の存在を知った。その本の存在を知って以来、それはなぜか私の頭から離れなくなった。当時、私はそんなに直感が効く方ではなかったが、この本に関しては、わけもなく強烈に引きつけられた。

それは日本語では『奇跡のコース』や『奇跡講座』などと呼ばれている。

2008年当時、それはまだ日本語の本として出版されていなかった。

しかし少しネットで調べると、その本を日本語に翻訳してPDFとして配布している方がいることがわかった。

だが、なぜかはわからないが、私には、その文書を読み始めたら、後戻り不可能なほどに人生が変わってしまうという直観的な確信があった。

なぜかはわからないが、完全に不可逆的な、もう取り消せない変化、一方通行の変化が私の中に生じるという確信があり、私は感じたことのない種類の恐れ慄きを感じた。

しかしその方向に進むことには、何かこう心の底からワクワクするようなフィーリングがあることも確かであった。

私は奇跡のコースを読みたいというメールを、翻訳者の田中百合子さんに送った。

奇跡のコースのPDFをメールで受け取った日の夜、私の右肩あたりに、目では見えない、透明な美しい光を発している存在がいることに気づいた。

私はその本を読み始めた。

その本は『テキスト』と『ワークブック』と『教師のためのガイド』という三部からなっていた。

『テキスト』にはその本が教えようとしていることの内容が書かれていた。『ワークブック』には、その内容を身につけるための、一年がかりで行うワークが365日分書かれていた。

私はとりあえずテキストをざっと二周ほど読むことにした。

PDFを、当時、発売されたばかりのiPhone3Gに入れて読んだ。そのため、いまだにiPhoneを見ると、それは悟りのための機械として感じられる。

私はiPhone3Gでひたすら『A Course in Miracle』のテキストを読んだ。

脳に直接、まったく新しいOSがインストールされていくかのような体験だった。あるいはOSのバグが、深いレベルで速やかに修正されていくような体験だった。自分では触ることのできない心の深い部分を、自分のことを優しく愛してくれている、それでいて高次元に存在する何かの存在が、的確に癒してくれている感覚があった。

その頃、私はひとつの夢を見た。

その夢の中で、私は壺を割っていた。

その壺は私のものだった。

私の大切な壺だった。

それを自分で割っていた。

なぜ壺を割っていたかといえば、それを人に見せつけるためだった。私は私の苦しみの見せしめとして壺を割った。

壺を割ると私は苦しい。

その苦しさを人に見せつける必要があるために、私は壺を割っていた。

その人のせいで、私は苦しんで、壺を割ることになってしまったのだ。

そのような苦しみを、その人に見せつける必要があった。

だから私は自分が大切にしている壺をいくつも割った。

その人はそんな私を見て、困ったような、どうすればいいのかわからないという顔をしていた。

その夢を見て目覚めた瞬間、私は自分が、かつて流したことのない量の涙を流していることに気づいた。

かつて過ごしたことがないほどに狭いあの部屋のロフトベッドで私は目覚めた瞬間、私は止まらない涙を流している自分に気づいた。

ベッドから体を起こしたあともその涙は止まらず、私はその後、一二時間ほど涙を流し続けた。

そして涙が止まると、スッキリしていた。

その体験の後、私の心のOSの深い部分が書き換わったのを感じた。その書き換わった部分は、永久に、不可逆的に癒やされたと私は感じた。

私はヒーリングを体験したのだった。

それから私はG-Shockを購入した。

G-Shockがあれば、奇跡のコースのワークを効率よく進めることができる。

なぜなら、奇跡のコースのワークでは、一時間に一回、五分間の瞑想をせよ、などという時間指定の課題がよく出されるからだ。

私の意識は散漫なので機械の助けを借りてそのワークを乗り切ることにした。G-Shockのリピートタイマー機能を利用して、私は奇跡のコースのワークブックを気持ちよくこなしていった。

奇跡のコースは、コロンビア大学に務めるヘレン・シャックマンという医療心理学の助教授が、イエス・キリストと思われる存在から、不思議な精神的接続を通じて彼女の心にもたらされる文章を書き取り、それを同僚のウィリアム・セットフォードという臨床心理学の教授と共に編集し、ケネス・ワプニクという児童心理学の博士が校正して本にしたものである。(詳しくはWikipediaをご覧ください)(どんなものか実際の内容をちょっと見てみたい方には、とりあえず奇跡講座フレンドリー版をおすすめします)

かつてこんなにも人知を超えていると感じられた本を読んだことはなかった。

これでも私は読書家で、ありとあらゆる種類の本を高いものから低いものまで読んできたつもりだ。だがこの本は違う次元に存在している本だと感じられた。

それでいて、この本は私のための本だと感じられた。

私がこれまで書いてきた小説、ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ、NHKにようこそ!、超人計画、ECCO、ムーの少年、僕のエアと、書き進め、深めてきたテーマへの答えが書かれていると感じた。

どうしてもそれをポジティブな変化に繋げることが出来ない、あのテーマへの、完全な回答が、奇跡のコースには書かれていると感じた。

『目に見えるものには何の意味もない』

この洞察、これが鍵だ。この洞察は一見、薄暗い、凄まじくネガティブなものと感じられるが、この洞察こそが、あらゆる癒しの源泉であり、無条件の愛が存在する根拠であり、奇跡が起るための必要条件なのだ。この洞察こそが、人に、ありとあらゆるポジティブな変化を起こし、この世界を想像を超えた良い場所に変えていくための鍵なのだ。この洞察によって情熱に溢れた人生が可能になるのだ!

ところで、かつて私は『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』という処女作で、チェーンソー男という悪者を書いた。しかしその悪者はヒロインの心が生み出しているものなのだった。私は『NHKにようこそ!』という小説で、悪の組織、日本ひきこもり協会というものを描き出した。それは主人公の心が生み出しているものなのだった。

そして実は、あらゆる小説、あらゆる創作物の中に存在しているあらゆる悪は、作者の心が生み出しているものなのだった。

では、この現実世界に存在すると感じられる悪も、私の心が生み出しているものなのではないか。

そうなのである。

誰かが何か悪いことをする。それを悪いと感じるのは私の心であり、それに悪という意味付けをしているのは私なのであり、つまりそれを悪にしているのは私なのである。

テーブルにコップが置かれている。それには何の意味もない。テーブルにiPhoneが置かれている。それには何の意味もない。もしそれらに何かしらの意味が感じられるとしたら、私の心が、その意味を、それに、投影しているのである。それそのものには何の意味もないのである。

だが、それは、前々からわかっていた。

奇跡のコースを読む前から、ずっとそれはわかっていた。

しかしだとすると、この世界はなんだというのか?

だとすると私の存在はなんだというのか?

コップに何の意味もないとするなら、この私にもなんの意味もないのではないか?

オーケー。

すべてに何の意味もない。それはそれでいいとしよう。

そして、私という存在、この滝本竜彦、本名は滝本龍彦という存在にも何の意味もない。それもまあオーケーとしよう。

いいよ!

別に何の意味もなくても、いいよ!

だが……それなのに、なぜこんなにも人生は苦しいのか……。

もし何の意味もないなら、苦しみもなくなるはずだ。

なぜなら、苦しみは、ひとつの強烈な意味感覚であり、もしこの世に何の意味もないなら、当然、苦しみも存在できるはずがないからだ。

しかし現実問題として私の人生にはとてつもない量の苦しみ、と感じられる物事が存在している。

とすると、あらゆることに何の意味もない、という考えは間違えだったのではないか。この世の中には本当の苦しみが存在しており、それゆえに何かしらの、決定的な、変えることのできない意味が存在しているのではないか?

しかし私の論理的思考回路が告げる。それは、すべてがトートロジーによって成り立っていることを告げる。論理的思考はA=B=Cという、記号の連鎖の連なりによって成り立っている。よってその思考回路に意味は無い。また、各思考には、感情と感覚が結びついている。それは感情と思考と感覚の複雑なネットワークを成しているが、そのネットワーク全体も、A=B=Cというような記号の連鎖と、それに複雑に結びついた感情と感覚の構造体であり、その構造体は、ただそれとして存在しているだけだ。

それは、ただ、そこにあるだけだ。

この、ただ、ここにある、これ。

『これ』には、やはり意味がないように思われる。

だが……日常生活の中ではいろいろと苦しいことがあるように感じられる。

つまり、私の、論理的、あるいは哲学的思考によれば、この世界には何の意味もない。

だが私の日常的、感覚的フィーリングによれば、毎日、苦しいこと、嫌なことだらけだ。

この両者の間に、越えがたい崖のような矛盾が存在しているのだ。

私ひとりではこの崖を乗り越えることはできなかった。

だがすでにこの裂け目を超えた人たちが沢山この世にはいるようだった。奇跡のコースは、すでに裂け目を超えた存在によって描かれた本であり、どのようにして、この裂け目を飛び越えるか、その具体的な方法や、飛び越えるための跳躍力を身につけるためのトレーニング方法が書かれている本だった。

そう、奇跡のコースがあれば、この、意味と無意味の矛盾を解決することができる。

ところで、日本人なら誰でも知っている。色即是空という言葉を。

目に見えるものは空なんだ! だからコップには何の意味もないんだ!

そんなことは頭ではわかっている。

色即是空だから、何もかも清浄でオールオッケーなんだ!

なんてことは頭ではわかってる! だが苦しいものは苦しい!

この矛盾を解決するためには、色即是空を頭で理解するだけではダメなのだ。

頭で色即是空を理解するとは、パソコンで例えれば、パソコンのデスクトップに、「色即是空」と書かれたテキストファイルを保存するようなものだ。

だが、そんなことでは、そのパソコンは何も変わらない。

必要なのは、パソコンのOSそのものを、色即是空という認識パターンによって構築されたOSに入れ替えることなのだ。

そのようなOS全とっかえの具体的方法が書かれた本が、奇跡のコースなのである。

色即是空で空即是色なのに苦しいのは、特定の現象、特定の感覚、特定の勘定、特定のシチュエーションを、苦痛として知覚するよう構築されたOSによって自分の心が稼働しているためである。

そのOSは数十年という時間、アップデートされ、強化され続けてきた。その稼働を解除し、新たなOSに入れ替えるには、それ相応の作業が必要になる。そのための作業方法を奇跡のコースは教えてくれる。

OSの入れ替え方法、すなわち、自分の心の修正法、それを奇跡のコースでは、『許し』と言う。

『許し』によって心の中が修正されると、現実に実際に変化が生じる。

なぜなら現実に意味付けをしている心が修正されることによって、現実の意味が変わるからである。

現実の意味が変わるとは、まさに現実が変わるということである。

現実が変わる。

それはまさに奇跡である。

そういったわけで、奇跡は起る。

ばんばん奇跡は起る。

私は『僕のエア』という小説で、なんにも意味が感じられない、という話を書いた。

しかしこの苦痛、それだけはリアルに感じられると私は書いた。

ポジティブなことは全部、あやふやな夢のように感じられる。

しかしこの生活の中にある虚しさ、惨めさ、悲しさ、恐ろしさ、怒り、憎しみ、そんなものはリアルに、強く、感じられる。

そんなとき、必要なのは、優しさと愛と許しだ。

自分にひたすら優しくしよう。

自分をひたすら愛そう。

自分の中の許せないことを許しまくろう。そして身の回りの他の人のことも。世界のことも。

そうすれば心の中の、苦痛の原因は、愛され、許されることによって、溶けていく。

そして、心の中には新たなスペースが生まれ、そのスペースには愛と光が充填され、その優しいエネルギーによって、現実には新たな意味が生まれてくる。それは優しい心から生まれる優しい世界だ。

憎しみに満ちた心から生まれる苦しい世界、優しい心から生まれる優しい世界、どちらも、夢のようなものだ。

だが、悪夢を見ている者は、その夢をリアルな現実だと感じている。しかし、楽しい夢を見ている者は、優しい世界に生きる者は、自分が今、美しい夢の中に生きていることに気づいている。

夢であることの自覚、それこそが覚醒というものだ。

覚醒したとき、人は自分の世界を創る力を手に入れる。

奇跡のコースを読み、そのワークをやることで、予想通り、私の人生には後戻り不可能な変化が生じ始めた。

 

 

 


 

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