人生は短いから、本当にやりたいことを今すぐやらなければならない。とは、よく言われることであり、もっともなことであると感じられる。
しかし仮に人生が無限に長くあったらどうだろう?
誰もが、吸血鬼に噛まれるか何かして、あるいは仙道の秘儀を修めるか何かして不老不死になる可能性がある。あるいは、普通に死んだ後でも、あの世や来世がある可能性もある。
つまり誰にとっても、人生が無限に長くある可能性は十分にあると言える。
仮にそうだとして、本当に人生が無限にあったとして、その場合もやはり、本当にやりたいことを今すぐやらねばならない。
それはなぜか?
そうした方が面白いからだ。
しかし本当にやりたいことをやろうとしたとき、「自分が何をやりたいのかわからない」という問題が生じるときがある。その場合、人間はどうしたらいいのであろうか?
まず考えられるのが「先入観を外す」ことである。
「本当にやりたいこと」という表現には、何かこう、とてつもない大事業や想像を越えた突拍子もないことこそが自分の本当にやりたかったことである、という方向性に人の意識を誘導する作用が含まれているように感じる。
しかし自分が今、本当にやりたいことは、もしかしたら部屋掃除かもしれない。あるいは近所を散歩することかもしれない。あるいは昼寝することかもしれない。あるいは目を閉じてただ座っていることかもしれない。あるいはPCのデスクトップとブラウザのブックマークを整理することかもしれない。あるいは引き出しの中をちょっと片づけることかもしれない。
そんな地味な日常的と感じられる行動こそが、今この瞬間、自分が本当にやりたいことである、という状況は大いにあり得ることであろう。しかし、「本当にやりたいこと」は、何かこう画期的な、自分の人生をすさまじく変化させる突拍子もない何かであるという先入観によって、その、明確に認識できている、今この瞬間、本当にやりたいことを無視してしまう。
そのようにして自分がやりたいと感じていることを無視してしまうとは、自分の心の中にある「やりたいことセンサー」から発せられる「やりたいことシグナル」を無視するということである。そして、あまりにもたびたび、「やりたいことシグナル」を無視すれば、その明確に発せられているシグナルを無視する回路が心の中にできあがってしまう。
そうなるともう、自分がやりたいことを認識することは、難しい作業になってしまう。そして人は自分が何をやりたいのかわからないという悲しい状況に陥ってしまう。そしてものすごく短い、あるいは無限に長いこの人生の中で、路頭に迷ってしまうのだ。
「路頭に迷う」とは、「本当にやりたいことシグナル」を無視する回路が心の中に構築されてしまい、本当にやりたいことを刻一刻やることができなくなってしまった状態を表す言葉である。
路頭に迷った人は、何か違う、何かがおかしい、などという違和感を心の中に感じている。しかもその違和感は年を追うごとに増幅していく。その違和感がもう何をどうしてもごまかせなくなるタイミングはだいたい現代人には共通しており、そのタイミングで発生する、強い慌てふためきを、人はミドルエイジ・クライシス等と呼ぶ。
だが繊細な人はミドルエイジになるまで、その違和感を放って置くことはできない。人によっては、中学生、あるいは小学生のときにはもう、その違和感を認識し、それに苦しめられていることもある。
だが、なんにせよ、ミドルエイジで違和感に耐えられなくなろうとも、小中高校生のときに、違和感を感じ始めようとも、自分の人生に違和感を感じることは、どちらかといえばポジティブなことだと言える。
なぜなら違和感を感じて、初めて、その違和を、調和へと修正できるからである。
調和、つまりハーモニーとは、自分が本当にやりたいことを、刻一刻、明確に認識し、それをスムーズに実行できている存在のありかたを意味している。
瞬間瞬間、心の中に浮かび上がるかすかなシグナル、「やりたいことシグナル」を確実にキャッチし、それに対して抵抗することなく、スルスルと流れる水のようにそれを現実的行動に移す存在のあり方をしているとき、その人は、自分自身と、そして世界と調和して存在している。そこには軽やかにダンスをするような美が自然と生じ、そんな人を端から見学していてもきっと気持ちいいものであろうと思う。
そんな調和を生活の中に生み出すにはどうすればいいのだろうか。
それには様々なアプローチが存在しているが、まずひとつ思い浮かぶ、そのためにできる簡単なことは、行動の合間合間に、「今、自分が一番やりたいことはなんだろうか?」と自問してみることである。そして心の奥から返ってくる答えを、しばらく、何も考えずに待つことである。
その答えは、何かの思考として現れることもあれば、かすかな感覚や、イメージとして現れることもあるだろう。
また、その「やりたいことのシグナル」に対して、「そんなことをやっても無駄だ」とか、「やりたくない」とか、「それよりも先にやる」ことがある、などという抵抗が生じることもあるだろう。
この、心の中の静かな部分から沸いてくる「自分が本当にやりたいことシグナル」と、「そのシグナルに抵抗する心の回路」の間に生じる葛藤、これこそが、真の葛藤なのである。
この葛藤こそがすべてだ。
あらゆるドラマはこの葛藤に端を発していると言える。
ここで、「本当にやりたいことシグナル」に耳を貸しそれを実行するか、あるいは、「そのシグナルを無視する、あるいは抵抗する回路」に身を委ねてしまうか、この選択こそが、真の違いを生み出す、究極の選択である。
そしてその選択は毎瞬毎瞬、我々に突きつけられている。本当にやりたいことシグナルを認識しそれに従えたとき、人は充実感を感じ、リフレッシュした感覚を感じ、人生の真ん中を歩けている感覚を感じるだろう。
だがそのシグナルをスルーして形骸化した行動を盲目的に繰り返してしまったとき、その人生はむなしくなっていくだろう。だが何にせよ、人生に充実を感じ、その真ん中を歩くためのチャンスは、一日の中に、数え切れないほど存在している。
行動と行動の合間、ふとした瞬間、そのとき自分の深い部分の声を聞くために耳を澄ますことができる。
ほんのちょっとでも日常的意識を静かにして、自分の思考に煩わされて、ささやかなシグナルがかき消されてしまわないよう、心をわずかにでも静かにして、そして自分の心を感じるのだ。
自分を感じるのだ。
頭に浮かぶ思考は自分ではない。
自分とは思考よりも深い場所にある、言葉にできない何かだ。
しかしそれは感じられる。なぜならそれが自分だから。
そしてそのようにして感じられたかすかなシグナルに従って行動したとき、人は自分を表現し、自分としてこの世界に生きていることを実感する。
そのとき、その瞬間、人生は短かろうと永遠に長くあろうとどうでもよくなる。
なぜならその瞬間の中に無限があり、そのとき人はそれとひとつになっているからである。