あらゆるスピリチュアル・ワークや自己成長のための実践の基礎となっている観念のひとつに、「すべてには何の意味もない」というものがある。

すべてには何の意味もないからこそ、ヒーリングは起き、奇跡は生じ、無条件の愛がこの世に存在することが可能となる。

もし何かに、少しでも、完全に確定した意味などが存在したら、その時点で、無条件の愛が存在することは不可能になる。すべてには何の意味もないからこそ、ありとあらゆるものを、無条件に愛することができ、ありとあらゆるものを無条件に許すことができ、それにより奇跡は生じ、ヒーリングが起きるのである。

というわけで、青少年期の、中年期の、あるいは老年期の男女が思い悩みがちな悩み、「俺の人生、私の人生には、一体何の意味があったのだろう?」「この世界には何の意味があるのだろう?」という悩みに対しては、「何の意味もないよ」という答えが、一つの正当な、輝かしい答えとして存在していると応えることが可能である。

その一方で、無、空、魂、高次の自己、といった、より大きな自己の側面が求める人生の方向性というものは、確かに存在しており、それは確かに人生の意味、人生の目的と言うべきものである。

つまり、自分の日常的自己、自我のレベルから観たとき、世界には何の意味もなく、人生には何の目的もないというのが正しい見方である。だが自我を超えた高次の領域には、確かな方向性、意味性、そういったものが存在しているが、それは自我にとっては測りがたいものである。

とりあえず本稿では、自我レベル、日常意識レベルでの、「世界の無意味さ」ということに焦点を当てて話を進める。自我レベル、日常意識レベルで、ありとあらゆることには何の意味もなく、世界にも生命にも意味はないということは事実であり、それは直視すべきことである。

だが自分の日常的人格、自我は、「何の意味もない」ということを何より恐れる。

その気付きは、自我そのものが、何の意味も持っていないということを、自我自身に対して明らかにするからである。

またもし、自我自身に何の意味も無いとわかったとき、自我に同一化している意識は、まるで自分が幽霊か、そのような、存在しないものになってしまうように感じ、激しい恐れを感じる自我の不安を共有してしまう。

つまり、いまだ『意味を超えたもの』の存在を知らず、魂、ハイヤーセルフ、聖なる自己、そういった『三次元的な意味を超えた存在』との同一化を果たしていない意識は、自分の存在がよって立つ足場を失ったように感じ、激しい恐れを感じる。

それゆえに、人はなんとかして、「すべてには何の意味もない」という考えを忘れようとする。

その結果として、数多の無駄な三次元的ドラマ、執着、中毒が生まれ、三次元的意味を生じさせるためのフレームワークである上下左右のありとあらゆる概念の区分けが生み出されるのである。

しかし「まったく、愚かな人類よ。そんな知的な分類などすべて忘れて、その場のノリ、ハートの衝動に従えばすべて万事オッケーなのだ」などという考えもやはり間違っている。

人間として生まれたからには、知性は磨くべきである。

ありとあらゆる知的概念の操作をある程度はマスターすべきである。

その上で、無数の知的概念がたむろしている心のフィールドの、ある程度の領域、「ここはもう探索し終えた」という実感を感じられるぐらいの領域は踏破すべきである。

その上で、知的概念の操作を超える領域が存在していることを超意識によって直感すべきである。

(参考図書 ライトノベル〜光の小説〜 第二章 ママの昔話 その1 その2

その上で、「すべてには意味がない」という領域へと、意識を超越させるべきであり、最終的にはその超意識状態を日常のものとすべきである。だがそれは段階的な成長によって一歩ずつ進んでいく道であり、いきなり、「何もかも何の意味もないよ。空だよ」みたいなことを言っても、それはただの耳年増、知ったかぶりである。

「すべてには意味がない」という世界観から利益を得ることができるのは、いわば、小学校を卒業し、中学校、高校、大学と、着実に意識レベルを上昇させていった者だけだ。(小学校や大学というのは、比喩的表現です)

もし人生の何処かの領域に、埋められていない穴があるなら、卒業してない何かがあるなら、その穴は何らかの手段によって埋める必要がある。

感情をマスターし、思考をマスターし、その上で、思考を超えたゾーンへと分け入っていくべきである。

また、もし人生の何処かの人間的な領域、たとえば『異性にモテたい』『社会的な達成を得たい』などがあるとしたら、その欲望を、まさにその形を得ることで満たす必要はないかもしれないが、その欲望の中にある欠乏感を見つめ、またその欲望の対象を得ることで得たいと思っているものの本質を探り、その本質を得るなどして、とにかく心の穴をすべて満たす必要がある。

「欲望には何の意味もない」などとして、自分の欲望と向かい合うことをスルーしようとするのは、そこから得られる必要不可欠な成長をスルーすることである。そのような穴が人生に空いているとき、その穴は自分の存在を意識に気づいてもらうために、何かのドラマを定期的に人生の中に生じさせるであろう。人はそのようなドラマを生み出している原因を心の中に探り、それに対処すべきである。

そのように、穴を埋め、欲しいものを得る努力をし、己の人格、パーソナリティを円満にする努力をしながら、そのうえで「すべてには意味がない」というアイデアを、己の意識レベルの更なる向上のために役立てようとしたとき、そのとき始めて、その言葉は人の魂を燃え上がらせ、全てを癒し、奇跡を起こす魔法のワードとなるだろう。

『世界は空ろだ。だから私は飛ぶことができる』

Might and Magic Book One : the Secret of the Inner Sanctum とあるエリアの謎の落書きより

だが「すべてには意味がない」という言葉を「だから自分は変わる必要がない」「だから何も得る必要がない」などという、今の人格を保持するための逃げゼリフに使うなら、その人の人生はそこでストップし、代わり映えのしない、似たような、しかもアンビエントというよりもむしろザラついた、テイストレスな体験をその人の意識は味わうことになりがちだろう。

このように、真理のいち側面を表している言葉ひとつをとっても、人がそれを何のために使うかによって、毒にも薬にもなる。

ありとあらゆるものは、それ自体の中には確定した意味を持っておらず、それを見るものの視点によって、それが表すものはダイナミックに変わってくる。もしそれを高い意識で観たなら、それは高い意味を露わにする。

また、そのような、あらゆるものに確定した意味がないということは、ありとあらゆるものに、新たな意味を見いだせるということであり、しかも対象物に新たな意味を見いだせるということは、その対象物が現実的に、新たに生まれ変わるということでもある。

そのようにして、我々は、自分の生きる世界を再生、新生させていくことができる。

どのような苦痛の原因も、それを高い意識で観たなら、それは本当に違った意味をその人に見せ始める。ここに一種の量子力学的な不思議なメカニズムが働いており、その変化は物理的なレベルにまで及ぶ。

何かを、違った見方で見れば、それは本当に変化するのだ。

見るものと見られるものの間にはダイナミックな相互作用が存在している。なぜならそれらは一つのものだからである。見るものが変われば見られるものも変わる。見るものが自分の意識を高くし、高い意識レベルで何かを見れば、見られたものは変わっていく。ヒーリングはこのようにして生じる。

この方法を使って、ありとあらゆるものを癒やすことができる。

まず試しに何か、トラウマなどあったら、さっと癒してみてはいかがだろうか。トラウマなど、その種の、激しくインパクトのあるものほど、ヒーリングは容易である。なぜならそこに問題があると、明確に分かるため、意識をそこにフォーカスすることが容易だからである。


 

 

瞑想コーナー

過去の記憶を癒やす瞑想

  • 思い出せる範囲で、過去の癒やしたい出来事を思い出す。
  • 深呼吸してリラックスする。
  • 「この出来事には、私が今まで知らなかった、何か別の、より深い、高い意味があるのかもしれないという考えを受け入れます」と心の中で唱える。
  • 「その何か別の意味を知るために、それを知っている、私の中の深い意識、高い意識に、私の知覚を一時的にゆだねます。この出来事の真の意味を教えて下さい」と心の中で唱える。
  • 心の中でその出来事のイメージを想像し、そのイメージに光が流れ込んでいくのを想像する。
  • そのイメージを見ながら「ここにあるすべてを無条件に許し、愛します」と唱える。
  • イメージや、自分の呼吸、肉体の感覚、感情を観察し、それらが次第に変化していくのを感じる。通常、激しい感情や感覚は、ピークに達した後、次第に穏やかになっていく。
  • 好きなだけ意識を癒やしたいものに向けた後、「過去のこの領域が完全に癒やされることを受け入れます」と唱えて瞑想を終え、日常の意識に戻る。

 

人によっては、もしかしたらこのワークはとても難しく感じるかもしれない。だが、過去の苦痛なイメージと向き合うというワークは、意識の操作法を学ぶに当たり、高負荷であるが、多くの実りをもたらす練習であろうと私は思う。

(本瞑想の参考図書 邪神と私 ~The basic principle of miracle quantum healing~