あなたはすでに完成している。

三次元的観点から観たとき、空や無として感じられる、減りも増えもしない永遠のもの。それがあなたである。

そのようなあなたは、すでにゴールに達しており、そもそも最初から、どこにも動いていないのであり、ここが出発地点にして到達地点であるという、アルファにしてオメガな場所に、あなたは原初から永遠に存在している。

そのようなあなたは、変わらなくていいし、変わりようがない。

だからあなたはありのままでいい。

だが、あなたは早急に変わらなくてはならない!

なぜなら、あなたは、本来のあなたではないものを、あなたのすべてとして認識しているからである。

つまり、あなたはその肉体と思考と感情の集合体である日常的人格を、自分自身のすべてとして認識しているからである。

それは刻一刻と変化していく根無し草のようなものであり、それは、あなたがどれだけ変わりたくないと願っても、一呼吸ごとに有無を言わせず変化していくものである。

だからそれは、変わらざるを得ないし、むしろ積極的に変えていくべきものである。

瞑想や、各種のスピリチュアルなワークは、極めてダイナミックな人格の変化が求められるものであり、それは特急列車に飛び込むような、一種の身投げのような跳躍の繰り返しである。

過去、私は、『若者が、日常的人格の変化を恐れて、延々と、変わらない理由を探して足踏みを続ける』という物語を創作した。その足踏み、人格の変化を停止させ、現在の人格を保存させるための大変な努力を、人は好きなだけ続けることができる。

しかしその努力はいずれ、もう無理、これ以上は続けられませんという時が来る。

あなたの本質は永遠に変わらない、無限の、物凄い、この宇宙のすべてそのものであり、とてつもない偉大なものだ。そして、あなたが自己をそれであるとして同一視している日常的人格は、それがどれだけ立派で、どれだけよく構築され、よく訓練されているものであっても、一時的なもの、せいぜい、素敵な衣服のようなものだ。

その両者の間には大きな隔たりがある。『本来の自分』と、『一時的な自分』との間にある距離は想像を越えるものであり、その想像を超えた距離を隔てている遠いものの一方、自分の本質とは大きく隔たっているものへと、自分を一体化させ続ける努力は並大抵のものではない。

だから、それはもう、無理というときがやってくる。

そして、人格への、無理のある同一化を手放し、大いなる自己に、自分を委ねたくなるときがやってくる。

ちなみに、「委ねる」などと書くと、イメージ的には、一瞬で終わりそうなその作業は、実はたいていは何年もかかる、とてつもなく意識的な作業である。

それは逆方向への努力、いわば逆努力である。その逆努力の継続こそが、スピリチュアルなワークの本質であり、このブログで私が表現しようとしていることである。

その逆努力の具体的な方法のひとつが、ここ最近、私のブログでよく書かれている「ワクワクすることをする」とか「ハートに従って行動する」などということである。

ワクワクすることをすれば、自分をその人格に閉じ込めている思考プログラム、すなわち自意識は少しずつ解けていく。

ワクワクすることをすれば、自分を閉じ込めている、思考プログラムの牢獄、強固な自意識の檻は、少しずつ、薄くなっていく。そして人は、本来の自分の属性である、自由さ、無垢さを、少しずつ取り戻していく。

だがもしあなたが、とてつもない強固な自意識を持っていたり、もうとにかく、自分を全力でがんじがらめに固めている場合は、ちょっとやそっとの、ワクワクすることの実行では、あなたの自意識は、なかなか薄くはなってはいかないだろう。それどころか、あなたの自意識は、ワクワクすることの実行を、全力で止めにかかるだろう。

あなたの自意識の言うことは、あなたにとって、完璧に理路整然としており、完璧に理論的であり、また感情的にも腑に落ちることである。つまり、あなたの思考と感情のすべてが、あなたがワクワクする行動をすることを、止めにかかるであろう。

そのように、『ワクワクする行為をしたいという魂の動機、ハートからの情熱』、そういった、真のあなたからやってくるモチベーションよりも、『あなたの自意識の力、あなたを牢獄に閉じ込める考えすぎの力、恐怖の力、不安の力、恥や集団意識による、本当にやりたいことをやらせない力』の方が強くなってしまったとき、そのときあなたは、もうダメだ。

ハートの力より、自意識の力が勝ってしまったあなたは、もう、なんともしようがない。

そのときあなたは、いわゆる『NHKゾーン』にとらわれてしまったのである。そこでは時間が停止し、精神の移り変わりはそこでストップし、ただ肉体だけが老いていく、そして無意味なドラマによる無駄な苦しみだけが降り積もるという恐ろしいゾーン、それがNHKゾーンである。(この命名の由来を知りたい方は拙著『NHKにようこそ!』の、特にマンガ版をお読みください)

そのような恐怖のNHKゾーンに囚われた人を救うすべを私は知らない。

はっきりいって、どんなヒーラーでも治すことは難しいと言わざるをえない。

なぜなら、自意識というものは、その人が、必要だと思って構築し、それを大事に持っている、その人の持ち物であって、それを他人が、勝手に取り外すことなどできないからである。

もしその人が、『俺はもうこの俺の自意識を取り外したい!』と、その牢獄の奥から、本当に望み、外にいる人に助けを求めるのであれば、相対的に見て、その人よりも自意識が薄く、また自意識をテクニカルに消滅させていくすべを知っている者、つまりヒーラーなどは、その人を効果的に手助けすることができる。

だが、そのためにはまず、その人自身が、心から願わなければならない。

俺はもう、私はもう、自分を閉じ込めている牢獄、この自意識から自由になりたい、と。

そして、その人が、そのような願いを持ったその時こそが、真の人生の始まりなのであるが、しかし、その人が、そのような願いを持つまでには、もしかしたら、長い長い旅が必要になるのかもしれない。

それは自分の自意識を、ひたすら厚く、重くしていく旅である。

自意識が厚く、重くなれば、当然、その自意識の中に囚われている意識は、重苦しさを感じ、生きるのが辛くなっていく。また、自分のハートの情熱から遮断され、自分にとってのエネルギー源となる物事から、自意識が作り出す壁によって切り離されているので、生きている実感が無くなり、生活は虚無に覆われていく。

だが、そんな暗く重々しい『NHKゾーン』も、本当に極めれば、何かいいことがあるのかもしれない。

苦しみを、どんどん、強めていくことこそが、もしかしたら、『NHKゾーン』からの脱出の近道なのかもしれない。

なぜなら、苦しみが限界を超えたら、人は必ず、救いを求めるものだろうから。

そして、救いが自分の人格内、自分の自意識内に存在していないとわかったとき、人は未知の場所、自分の人格の外、自意識の外、脳に大量にインストールされた思考回路の外に、救いを求め始めるだろうから。

つまり、『NHKゾーン』をさまよい、虚無のすべて、闇のすべてを完全に直視したものは、あるとき、本当に気づくのかもしれない。『ここには本当に、何も無い』と。だから、『どうしても、ここではない、どこか外側に、何かを求める必要がある』と、『NHKゾーン』のすべてを体験したものは、いずれそう、論理的な判断を下すのかもしれない。

そしてその人は『自分にはそれが何なのかわからないが、何か大きなものが私の自意識の外側にあるのなら、それを理解することを望む』と、心から望むことになるのかもしれない。

そのように自意識の中からの救いを求めるシグナルが、外部に向けて発信されたとき、その人の本質である、魂や、ハイヤーセルフや、すべてなるものと一体である、空であり無であり無限である永遠の意識は、自意識の牢獄に囚われているその人を助けるために、自意識の外側から、自意識の内部へと、救いをもたらす何かしらの情報やエネルギーのパッケージを送り込むだろう。

それは人であったり、本であったり、何かの夢のヴィジョンであったり、いろいろな形を取ることがあり得る。

そして、自意識の外からやってくる、自分をそこから救い出してくれるシグナルを求め、それがやってきたことに、ついに気づいたなら、あとは、トリニティについていくネオのように、マトリックスから脱出するために、ひたすらそれを追いかけ続けることである。

そのようにして始まる、自分の自意識からの脱出の旅は、とてもエキサイティングであり、感動的であり、何度も何度も、感動で泣いてしまう旅である。自分を発見し、自分を見つけ、自分を発見し続ける、拡大の旅である。

その旅の終着地点で待っているものは、自分自身であり、その自分自身に辿り着いたとき、下降と上昇の円環は閉じ、アルファとオメガはひとつであると明確に認識され、その人はずっと求めていたすべてで満たされ、ネガティブでないハッピーへと至り、そこでようやく、新たな始まりが始まるのである。