私の人生を変えた本は何冊もある。

だが、まったく違う生き方を始めるきっかけになった本として、まず最初に思い浮かぶのはバシャールの本だ。

当時、私は、いわゆるスピリチュアルに関するすべてのことを嫌悪していた。

今ではその嫌悪こそが、変化を恐れるエゴが生み出していたものだとわかるが、当時は、それらのことについて、まったく調べることもなく、実際に読んだり体験することもなく、ただ、頭ごなしに否定していた。

スピリチュアルなものとは、すべて、と学会に論破されるべきものであると思っていた。まぁそれはそれでいい。心に光をもたらすもの、愛が何なのかを教えてくれるもの、そのすべてを拒絶しきったおかげで、闇の何たるかを私は知ることができた。

人間のエゴが極限にまで達した時に生じる闇の限界を体験し、その時の模様を『僕のエア』などという物語にして表現することができたのは幸運だった。

(しかし私は『僕のエア』執筆時とその後数年間、あまりにエクストリームな闇を表現してしまったことを自ら深く恥じ、この作品が出版されることを拒否した。このような闇を世の中に出してはいけないと思ったのだ。なんとかして改稿し、闇を闇のまま出すのではなく、何かしらの突破口を物語の中に確立させたのちに出版しようとして、私は『僕のエア』の原稿を抱きかかえるようにして闇の中で静止し、そして沈んでいった)(この件に関しては関係者の皆様と編集者様と読者の皆様に深く謝りたいと思います。ごめんなさい!)(結局本作は2010年に改稿されること無く雑誌連載時のまま出版されることになる)

しかし闇、それがどれだけ深く、どれだけ様々なパターンを持っていようとも、無限性を持っていないものすべては、いつか飽きられるものである。なぜならそれには限界があるがゆえに、どれだけパターンを複雑化させても、それには必ず飽き飽きする時が来る。よって、『闇』にもいずれ人は飽きてしまう。そして人は、何かもっと、これではない、違う何か、これではない何かの面白そうなものを、無意識的に求め始める。

その、いまだ無意識な思いはシンクロニシティを作動させ、その人のもとに、新たな世界を呼びこむための種をもたらす。

それが私にとってはバシャールの本だったわけだが、スピリチュアル関係書籍を毛嫌いしていた当時の私がその本を手に取るまでには、実際にいくつかのシンクロニシティ的なアレコレを経る必要があった。

まず最初にあったのが以下のエピソードだ。

当時私はまだ、『NHKにようこそ!』の漫画版の原作を書いている途中で、確かその六巻のおまけにつくPC用ノベルゲームのシナリオを書いていた。

(本ノベルゲームは滝本竜彦の初期作品の中でも最高傑作のひとつである。テーマ的にも技巧的にも素晴らしい高みに到達している。また、まさにこれからエゴを消滅させるぞ、あるいはエゴをまだ知らぬ己の魂に整列させるための後戻り不可能な変容の活動を始めるぞという、エゴ自身による悲痛な覚悟と高揚感に満ちている作品である。ディープな滝本竜彦ファンはぜひゲットすることをおすすめする)

そのPC用ノベルゲームには、『美少女の宇宙人』というキャラクターが登場する。私はそのキャラクターの名前に、『バシャール・グリグラ』という名前をつけた。

『グリグラ』は、名作絵本の『ぐりとぐら』から取った。間抜けそうな響きが気に入ったからだ。

そして『バシャール』は、当時の自分が知っている中で、もっとも有名な宇宙人の名前、『バシャール』から取った。

当然、当時の私は宇宙人の存在など信じてはいない。宇宙人というか、宇宙存在とテレパシーで通信する『チャネリング』などという行為も、何一つ詳しくは知らないが当然、何かしらの人を騙すような行為であろうと思っていた。よって、自分の心の片隅に何かのはずみで記憶されていた『バシャール』という名前についても、何かうさんくさい、とにかく本物ではないが、有名な宇宙人の名前、ぐらいにしか思っていなかった。

そして私はちょっとした捻れた正義感のような、その実、明白なる悪意のようなものを発揮して、そんな意識的にか無意識的にかは分からないが、とにかくインチキに違いない宇宙人の名前を、意識的にか無意識的にかはわからないが、とにかく貶めてやろうとして、自分のPCゲームの美少女キャラクターの名前に採用した。間抜け感を付与するために、わざわざ下に『グリグラ』まで付けて。『この』バシャールは、犬型の生命体から進化した異星人であり、冬になると発情期になり発情する。

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次回に続く。