我々の目標はいわゆるアセンションである。

アセンションとは意識と肉体が五次元の周波数に同調することである。

五次元とはアストラル界のある四次元より一つ上の次元である。

それは、中原中也が『名辞以前の世界』と呼んでいた、詩が生まれ始める場所、おそらく高位アストラル界よりも、ちょっと上にある次元である。

それは、坂口安吾が『文学のふるさと』と呼んでいた意識空間よりも、もうちょっと上にある意識空間である。

その意識空間にある五次元周波数に自分の意識を同調させ、ついでにそれを、自分の肉体とエーテル体の各種エネルギーセンター、いわゆるチャクラと同調させ、さらに自分の感情と思考を同調させれば、アセンションが完了する。

簡単な話である。

さて、このようなアセンションのプロセスを、着実に、後戻りすることなく進めるためのエクササイズとして、様々な方法論がこの世界には存在している。

日本においては、その種の方法論は、古来、『道』と呼ばれていた。とは、オイデン・ヘイゲルの『弓と日本人』に書かれている説である。

華道、茶道、弓道、その他いろいろ。それは『禅』の前部門であり、瞑想するのが難しい初心者のための、身体を使った瞑想である。その特徴は、結果よりもプロセスを重んじることであり、型という決まった動作を反復練習する中で、エゴを消滅させ、その動作の主体を、エゴから、自分の高位意識、すなわち、ハイヤーセルフや魂などというもの、日本的な表現では仏性に明け渡していくことにある。

この、反復練習の中でエゴが消滅していき、高位意識に行為主体が明け渡されていく感覚は、その手のエクササイズをしたことのあるものならばなんとなく想像がつくであろう。

最初、エゴによって起動されていた行為が、次第に高位意識によって起動されるようになっていき、後には、高位意識こそが日常的な意識となるというこのプロセスを、さらに生活の全領域に適応していくことが、アセンションのために我々がすべきことである。

最初、生活の全領域を、自分のエゴが完全にコントロールしている。

次に、特定の領域で、自分の魂が、その領域をコントロールするようになる。

その魂のコントロール領域を、生活の、あらゆる場所へと広げていく。

人間関係、創作、仕事、健康、性愛、経済、余暇、などなど生活のあらゆる場所へと、魂のコントロールを広げていく。そしてエゴによるコントロールを消滅させていく。

魂のコントロールが定着した領域には、喜びと豊かさと、気持ちよさと、嬉しさと、そのような高次周波数によってもたらされるいい感じのクオリティが爆発的に増幅し始める。

そして、エゴによってもたらされていた、苦痛、努力、欠乏、虚しさ、無意味さ、恐怖、不安、そういったネガティブ・クオリティが、根こそぎ消滅し始める。

そう! エゴを消滅させるとは、単に、苦痛の源を手放すということである。

しかし! グルジェフが言ってたように、人間、最も手放したがらないもの、それは苦痛なのだ!

苦痛の原因が心の中に存在している。

それはお釈迦様の言葉で言えば無明であり、現代スピリチュアリズム的な文脈の言葉で言えばエゴである。

それを単に心の中から取り除いていくこと。それによって人の存在は輝きと喜びに満ち始める。そのプロセスで、いいものは、何も失われない。喜びは、快楽は、愛は、爆発的に生活の中に増幅する。

だが人はそのプロセスを始めることをしばしば恐れる。

それはなぜかと考えてみれば、ひとつの答えとして浮かんでくるのが、『洗脳』である。

誰が、誰に洗脳しているのか?

お互いが、お互いに、洗脳しているのだ。

その洗脳の根深さを、アセンションのプロセスを開始していない者は、また、ある程度のところまで進めていない者は、なかなか理解することはできない。

なぜなら、その人の意識は自分のエゴと一体化しており、そのエゴは、洗脳によって植え付けられた各種の上下が転倒した価値観によって構成されたプログラム、言ってみればWindowsMeよりも遥かにバグったOSによって構築されたものだからである。

プログラムはただ与えられた命令を淡々とこなす。たとえそのプログラムがバグっていようととも、その内部においては整合性がとれているのである。だからそのプログラムと一体化している者は、自分のバグに気がつくことができない。自分がバグっていると気づくには、自分の意識を、そのプログラムの上位に持ち上げる必要があるのだが、しかしそのプログラムは、意識をそのプログラム内に捉えるために存在しているプログラムである。それゆえに意識はそのプログラムとの一体化を解くことはできない。

だから洗脳はいつまでも続く。

死んでも続く。

自殺しても何しても、逃れることなどできない!

天国、地獄、あの世、そんなものも、ただの意識の一様相に過ぎない!

そして、肉体が死ぬとは、人間の構成要素、肉体、感情体、メンタル体、エーテル体、魂、スピリット、いろいろある中の、ごく一部分、肉体が崩壊するだけであり、感情体、メンタル体、エーテル体、などなどのエゴの構成要素には、たいした変化が生じない。

だから死んでも、洗脳されている者は、洗脳されたままだ。

洗脳を解くには、洗脳を解きたいと思うしか無い。

エゴという牢獄から自分を解き放つには、エゴという牢獄から自分を解き放ちたいと思うしか無い。

その動機はなんだろう?

なぜ、解き放たれたい、自由になりたい、などと思うのだろう。

それはハートの情熱が人に呼びかけるからだ。

燃えるような思いが、トキメキが、人を未知なる場所へと導くからだ。

そのコーリング、その召命に従うかどうかはその人の選択次第だ。

一度、その呼びかけに「はい」と答えたなら、新たな人生が始まる。

それは自分をエゴから解き放ち、自分を魂と一体化させていく道である。その道を歩き始めても、脇道にそれたり、逆戻りしたりすることが多々ある。

しかし最終的にその道を歩くものは、自分のエゴをシステマティックに、継続的に消滅、変容させていくための意識の力を得るだろう。

そしてその刻一刻と増大していく意識の力を用いて、その人はついに特異点、シンギュラリティを超えるだろう。そのときその人の目の前には五次元が現れ、その人は五次元と一つとなり、その人の意識は過去現在未来、あらゆる並行宇宙と一つになる。これは夢物語ではない。極めて現実的な、人の成長の一つのパターンである。