何かのはずみで、人の心が一定以上オープンになったとき、高次元の『知識』が、その人の中に流れ込む。

その時、人は悟る。

だが、その『知識』が持っている周波数、雰囲気のようなものが、その人の心の、その時点での基本周波数とあまりにもかけ離れている時、その人とその『知識』は共鳴することができず、『知識』はその人の脳内に留まることができない。結果、その人は悟り状態からすぐに離れ、いつも通りの日常的意識の中へと舞い戻っていくことになる。

しかしその人が『知識』を一瞬でも受け入れたそのとき、その人の脳は、なんとか頑張ってその高次元情報を処理し、その人の日常的意識でも保持することが可能な、何らかのイメージ、何らかの記憶を作成する。そのようにして創りだされた記憶は脳に安定した長期記憶として保存されるので、その人はその一瞬の悟り体験を決して忘れることはない。

結果、その人はその朧げであるが、他の何よりも魅力的な記憶が指し示している体験を、もう一度再現し、それを理解するための努力を始める。その努力に、その後の人生を費やす。

努力の甲斐があり、数年後にその人はまた、『知識』が心に流入してくる体験を得る。

だがその数分後には、その意識状態は終わり、その人は日常的意識に戻ってしまう。だがその人は『知識』との合一状態を再現するための努力を再開し、数年後にまたその人は『知識』とのしばしの合一を体験する。そしてまた数分後にその状態は終わり、その人は日常的意識へと戻っていく。

そんなことを何度も繰り返しているうちに、その人の脳や肉体や感情や思考の周波数は、『知識』が持つ周波数と、なんとか共鳴状態を維持できるまでに高まっていく。

そしてふと気がつけばその人は、自分がいつの間にか『知識』との合一状態をほぼ意識的に再現したり、それを維持したりできるようになっていることに気づく。

これが、『知識』と人が一つになるときに要する道のりのひとつのパターンである。もしかしたら他のパターンもあるのかもしれず、実際、多種多様なパターンがあるのであろう。