一つ前の記事で私は、瞑想によってお金を創造することは可能であると書いた。

しかし瞑想でお金を創造するとは、具体的にはどういうことなのだろうか?

念じることで、ポケットの中からビスケットが一枚、二枚、三枚、四枚、という風に、物質を無から創造するということなのか? お金を量子力学的なあれやこれやの不思議な力で無から生み出すというのか? 原理上、それも不可能ではないはずだ。そもそもこの宇宙が存在する不可思議に比べれば、お金がいきなり何の前触れもなくサッとテーブルの上に現れてもおかしくないはずだ。

もしそれがおかしいと思うのであれば、この宇宙が存在するという事実に対して、ちょっと哲学的な雰囲気の考察を三十分ぐらい続けてみていてはどうだろうか。そうすればこの宇宙が存在している、存在が存在しているという信じられない奇跡が今まさに現在進行形で発生中という驚きの事実に気づくかもしれない。

そのような驚きの事実が普通に成立しているこの現実においては、ササッとお金がそこらへんに出現するぐらいの奇跡も、アリといえばアリなんじゃないか、ぐらいに思考のリミットが拡張されるかもしれない。

しかし、おそらく実際は、もうちょっと、よくある経路を通って、お金というものは瞑想者の前に現れるのではないだろうかと私は思う。たとえば瞑想をすることによって、心の中に変化が生じ、これまで出来なかったことが出来るようになり、それによって成し遂げた何らかの物理的、社会的行動によって、お金を得ることができた、などなどというような。あるいは瞑想することによって、クリアになった心に素晴らしいアイデアが閃き、それを物理的、社会的に実行することによって、お金を得ることができた、などなどというような。

そんな普通の経路を辿って、望みのものが手に入ってくるようになるのではないだろうか。

いや、やはり、何か大々的な、画期的な、いかにも奇跡らしい奇跡が生じる可能性もあるはずだ。座布団をめくると、その下からお金が現れるような。

しかし、そのような奇跡のようなことが起きて望みが叶ったにせよ、普通の経路を通じて望みが現実化したにせよ、どちらにせよそれは、瞑想によって心の中に変化が生じたことによって、外部に発生した物事であり、それは結果にすぎず、それはいわば二次的なものである。

瞑想の主眼は、どちらかといえば意思によって心の中に変化を起こすことである。心の中に変化が生じれば、ときにそれは、その人の生活の中に目に見えるささやかな変化をもたらすだろう。またあるときは、その人の世界のすべてをねじ曲げるような大々的な、超次元的な作用をその人の実生活にもたらすこともあるかもしれない。しかしそのような外面的変化は、もらって嬉しいプレゼントではあるが、大きくても小さくても、主眼ではないのだ。

瞑想をして一番、嬉しいのは、自分の意思で自分の心を変える力が自分に備わるということだ。自分の心を変えるとは、自分の世界の意味、自分が生きている意味、そのすべてを変える、あるいは新たにそれを創造する力が自分に備わるということだ。そんな力があると実感できるのは嬉しい事であり、そんな力があらゆる人間の中に備わっているという事実こそが何よりの福音である。

だが、そうすると、やはり瞑想というものは『ものの見方を変えれば、世界が変わって見えるよ』『サングラスを外せば世界は明るく見えるよ』的な、心理的な変化を起こすことが目的のアクティビティなのだろうかというと、それもまた違う。

心理的な変化が本当に深いレベルで生じれば、その人の世界には物理的な変化も生じる。心と物質というのは、実は一繋がりのものなのだ。だから一方に変化が生じれば、もう一方にも変化が生じるのだ。

じゃあやっぱり瞑想というものは、心に変化を生じさせることで、現世利益を得るためのものなのかというと、やはりそれもまた違う。

内なる変化と外部の変化、どちらか一方が大事というよりも、その両方のバランスが大事ということになるのではないだろうか。それは、内面に変化を起こすことで、外部に何かの変化が生じ、その勢いで、より深い変化を内面に生じさせ、それによってまた外部により大きな変化が生じ、というように、左足と右足を交互に出して前進していく感じのものである、とでも言えるだろうか。

何にせよ前に進んだり、何かが変化していくのを体験することは楽しいことである。そのような楽しさを味わうための一つの手段として、瞑想というものを現代瞑想研究会で紹介できたらと思っている。