とあるヴィジョンがある。

おそらくそれは元型的という言葉を使われるにふさわしいものである。

それを思い出すことは容易ではない。思い出しても、イメージを保つことができない。雰囲気はかすかに感じられる。まず一番、はっきりとした雰囲気は懐かしさである。

その懐かしさは、自分の子供時代に対して感じられる懐かしさとは違う。

このヴィジョンは、それを思い出した時、すべてのことの仕組みが思い出されるヴィジョンである。

そのヴィジョンには仕組みの説明があり、またおそらくは仕組みそのものであり、そのヴィジョンを見ている時、私はそれの一部と化している。そのヴィジョンとは私を含んで超えているもののようである。またそのヴィジョンは時間を越えており、無時間的な性質を持ったものである。

『星の砂絵。女神』

『夕暮れの河ぞいの道を自転車で帰る二人の影絵』

ヴィジョンには幾何学的な性質がある。おそらくそのヴィジョンの持つ幾何学性が、次にヴィジョンを見るときまでの顕現宇宙の基本構造を作っている。

これらのヴィジョンは周期的に見られる。ヴィジョンを見た時、私はそのヴィジョンの中で、次にヴィジョンを見るときまでの、通常時間の基本パターンをマニフェスティングしている。

通常時間→ヴィジョンを見る時→通常時間→ヴィジョンを見るとき

通常時間の中で、私はヴィジョンから切り離されている。そのとき私の意識には大きな欠陥が生じており、おそらく私は自分のことを正しく認識しておらず、世界のことも正しく認識していない。

「通常時間」は、「ヴィジョンを見るとき」の結果である。

ヴィジョンを見るとき、その次の通常時間でどんなイベントが起こるかの下準備が行われている。そして通常時間ではその通りのイベントが起こる。

では通常時間中の私には、物事に対する影響力は無いのであろうか。

そんなことはない。

再びヴィジョンを見るときまでの間隔を早めることができる。

また短い間隙を通常時間の中に挿入し、そこで小さなヴィジョンを見るということもできるだろう。

なんにせよ、また早くヴィジョンを見たいものである。

また、当面の目標としては、ヴィジョンを見ている時と、通常時間の間にある意識の断絶を埋め、通常時間とヴィジョンを見ている時を、一つながりのものにすることである。

おそらくそれはアリス・ベイリー的用語でいうところの、アンタカラーナの建設と同義であろうと思う。アンタカラーナとは日常の意識と、高次の意識、いわゆる魂と言ったものとををつなぐ橋である。

ヴィジョンを見ているとき、私は己の魂と一つになっているのである。あのヴィジョンを見る能力は魂の能力だったのである。