『自分を知り、深め、広げる』とは、なんだか抽象的な、学校の標語のように感じられるかもしれません。
ですが、それぞれ創作力を伸ばすための、具体的かつ効果的なワークに結びついています。
それにしても、ここで何気なく書いている『自分』とはなんなのでしょうか? 特に、創作という行為に関係する『自分』とは、一体なんなのでしょう。
本稿で書こうとしている自分というものを、とりあえず『創作する主体』として定義したいと思います。
なぜ創作行為の主体である自分を知らねばならないのでしょうか。それは、そいつを知ることによって、そいつがどんなものを作ろうとしているのかを理解できるようになるからであり、それによって円滑な創作行為ができるようになるからです。
しかしそいつは結局のところ自分なのではないでしょうか。なぜわざわざ『知る』などという意識的な試みが必要になってくるのでしょうか。その理由は、『創作行為の主体としての自分』とは、この自分でありながらも、普段の日常的な自分とは、ちょっと違う存在だからです。
だから、『普段の自分』と、『創作行為の主体としての自分』の間には、ときとして大きなギャップ、食い違いが存在していることがあります。それぞれの考えていることや、望んでいることが真逆を向いていることさえあります。その食い違いは、ときに甚だしく大きいことがあります。
その場合、日常の自分はXを創作したいのに、創作行為の主体としての自分はYを創作したいというような目的の食い違いが生じていて、それによって日常の自分がどれだけXを作ろうとしても、まったく作業に力が入らないという現象が起きる可能性があります。
このような事態を、『燃え尽きた音楽家現象』と呼ぶことがあります。音楽家、特にロックバンドのロッカーのようなものは、燃え尽きがちなものであるとして世に知られています。それは時として『初期衝動が消えた』などいう言葉によって表現されることがあります。
これはつまり、その創作活動の初期において、そのロッカーの日常的な自分と、創作行為の主体としての自分の間には、なんのズレもなく協調していたものが、そのロッカーが年齢を重ねていくうちに、彼の日常的な自分と、創作行為の主体としての自分の間にズレが生じてしまったことを意味しています。
こうなると、実際の創作行為を行う存在である日常的な自分と、その自分にインスピレーションや情熱やアイデアを与えてくれる、創作主体としての自分との間に、断絶が生じ、日常的な自己は創造のためのエネルギーを得られなくなってしまいます。これによって『燃え尽きた音楽家現象』が生じるのです。燃え尽きた音楽家はときとしてかつての情熱を取り戻そうとして、酒、女、男、その他いろいろな刺激物を摂取し、それによってかつての情熱を取り戻そうとしますが、取り戻すべきは、『創作行為の主体としての自分』との協調ある関係であり、いくら刺激物を摂取してもなんにもなりません。
そんな状態にならないよう、あるいはそんな状態から回復するために、日常の自分と、創作行為の主体としての自分の、目標や、作りたいものを、一致させるという作業をする必要があります。
そのために『自分を知る』というワークの必要性がでてくるというわけです。
ではその『創作行為の主体としての自分を知る』というワークは、具体的にはどういったものが考えられるかというと、いろいろな形態が考えられますが、とりあえず一例として。。。。
例えばですね、自分の好きな音楽をノートにリストアップしてみる、なんてのはとてもいいワークであると思います。
・生まれてからこれまで聞いてきた音楽の中で、たくさん聞いた、自分の心を動かしてきた音楽をノートにリストアップしてみる。
・さらに音楽以外にも、小説や、漫画や、映画や、その他色々、自分の好きな分野のものをなんでもリストアップしてみる。
・さらに、自分の好きな遊びをリストアップしてみる。小学生の頃、どんな遊びをするのが好きだったでしょうか? 中学生の頃は、高校の頃は?
人生の中で、自分が楽しんできたものを、ノートになんでも、小さなものから大きなものまで、どんどんリストアップしていきます。さまざまな心震わせたものをリストアップして、思い出していきます。
そうやって、できれば100個ぐらいの好きなものをノートに書き出し、『好きなものリスト』を作りましょう。
そして、書き上げたそのリストをゆっくりと眺めてみれば、だんだん『自分』が見えてきます。
自分が好きなさまざまな行為、アイテムの中に、『創作行為の主体としての自分』が、このあとこの世に生み出そうとしているもののヒントが、ひっそりと、あるいはあからさまに、隠されています。
それを探り出し、パズルのピースを埋めていき、普段の自分と、創作行為の主体としての自分の間のギャップを埋めていきましょう。
この項、続く