あらゆる創作物は、それ自体では完成しない。それを受け取る人がいて、初めてそれは意味を持つ。
読者が本を読むとき、読者はそこに描かれている物語を、作者と共同創造している。
*
我々が漫画や小説を読み、それを楽しむとき、そこに描かれている世界や登場人物に、生き生きとした活力を感じる。
そのような活力、実在感を感じることができるのは、読者の精神エネルギーが、登場人物や作品世界に投影されているためである。
線や文字の集まりにしか過ぎない、ただのデジタルデータに意味を与えるのは読者の心である。
線や文字それ自体にはなんの意味もない。
読者の生気、精神エネルギーが、それらのシンボルに投影され、吹き込まれて初めて、線や文字は、読者にとって意味を持ち始める。
*
読者の生気が吹き込まれた登場人物が苦しい目にあったとき、読者もともに苦しみを感じる。
読者の生気が吹き込まれた登場人物がハッピーな目にあったとき、読者も幸福感を味わう。
だがここで問題が生じる。
作中に登場するあらゆる登場人物の生気は、読者によって吹きこまれたものである。
であるなら、悪役にもまた読者の生気が吹き込まれていることになる。
よって、悪役が主人公に負けたとき、読者もまた負けを味わうのだ。
*
悪役が負けたとき、その反対の極に存在している物語の主人公は、勝利を得る。そのとき読者は意識的に、その勝利感、達成感を共有するかもしれない。
だがその一方で、悪役は敗北を味わう。その敗北感を、おそらく読者は無意識レベルで共有する。
読者は勝利感や高揚感を、読後も引き続いて、意識的に味わうかもしれない。だがその勝利は、悪役の敗北によって得られたものだ。
つまりそれは、読者の心の一部分が敗北感を味わうことによって、読者の心の一部が勝利感を得ることができたということだ。それはシーソーのようなシステムだ。心の一部が下がり、心の一部が上がるという。
通常の物語は、このような、二元的、分離的構造によって、精神エネルギーを二つに分割し、それによって明暗のコントラストを生み出すというシステムに基づいて造られている。
このようなシステムによって、際限なく善と悪、主人公と敵、男と女、勝ちと負けが細かく分割され、差異が生み出されていくのが通常の物語システムである。
だが最近では、これとはまったく違う力学に基づいた、非二元的なシステムに基づいた物語なるものが存在を始めつつある。
ひとつパッと思いつく例を挙げるとしたら、それは刃牙道である。
格闘漫画という最も二極化、分離、差異化のエネルギーが強い領域において、刃牙シリーズは、その途中から、明確に、根底に流れるエネルギーの質を変化させた。
具体的には、バキ sagaという愛、快、相互交流をテーマとした外伝が創られたそのときから、作品の根底に流れるエネルギーの質に変化が生じ始めた。
あのとき分離、相互攻撃による差異の極大化という流れが終わり、融合、交流、ほのぼの感、そして笑いのエネルギーの創造へという新たな流れが、作品に生じた。
表面的には相変わらず登場人物たちが殺伐とした肉体の傷つけ合いを続けている漫画であるが、その根底に流れる雰囲気が、ある時を境に、ほんわかしたものに変わってしまったのだ。
似たような変化が作品に生じた例として、昴シリーズがあげられる。
苦痛と喪失のドラマによって、超絶ダンスパワーを得るというシステムに甘んじていた昴という少女は、昴 MOONという新シリーズに移行したのちに、愛や相互交流によって、ふわっとした、しかしより透明で、力強い、新たな種類のダンスパワーを得ることに成功した。
そのような、ふわっとしたエネルギー、すなわち光のエネルギー、非二元的エネルギーに接した時、読者は心の中に、プラスマイナスに二極化されていない、澄んだエネルギーを受け取る。
それは読者の心の構造を、全体的に、良い方向に持ち上げる力を持つ。
それは、過去、全面的に流行していたような、二極的ドラマが持っていたような、中毒性を持っていない。
中毒性の喪失、それは短期的には、何か大切なものを失ってしまったかのように感じるかもしれない。
だがそれは長期的に見れば、その作品と読者と作者にとって、有益に働く。中毒性とは、常に、関係各者全員の、心の力を弱める作用を持つからである。
中毒性、あるいは二極性によって作り出される、欠乏と獲得、勝利と敗北のドラマ、それはあたかもファイナルファンタジーⅣにおいて、セシルが当初用いていた暗黒の技、自らの体力を削って放つあの暗黒剣のようなものであろう。
その技を手放し、暗黒騎士から聖騎士へとジョブチェンジすることで、より強く、より深い力を手に入れることができる。