意識には高い低いがある。

自分の意識レベルを高めていくこと、また意識レベルを高めたいと望む他の人の役に立つこと、それが私の目標である。また、いま私が本ホームページで連載している『光の小説』は、読んで面白い娯楽小説を目指して書かれているが、それは同時に『意識レベルを上げるための役に立つ小説』となることを目標にも書かれている。

娯楽には、「面白さ」「完成度」などという、通常の尺度の他に、「読者および作者の意識レベルの向上力」という隠れたパラメータが存在している。

物凄く面白い娯楽でありつつ、それを享受することで勝手に意識レベルが高まっていくような娯楽。読むだけで勝手に意識レベルがあがる小説。そういったものを私は作っていきたいのである。

もしかしたらその見た目はジャンクフードのようなものであるかもしれない。しかしそのジャンクフードを喰い、ジャンク感を満喫している内に、なぜか、不思議な作用で肉体と精神が健康になり、生活に良い変化が訪れるような食べ物。そんな食べ物があったら素晴らしい。そんなものがコンビニに売っていたら毎日食べたいと思う。だから私はそのようなものを作りたい。

しかし、いわば化学調味料のようなもので読者を麻薬中毒のようなものにしたいという欲求も、もしかしたらまだいくらか私の中に残っているかもしれない。この欲求は作り手の心の中の欠乏感から来るものであり、読者を自分の創作物の中毒にすることで、作り手の心の中の欠乏感を埋めようとする、そのたぐいの心理的メカニズムの産物であろう。そのメカニズムは、よく見つめた上で浄化、昇華すべきものである。

創作には二種類の方向性がある。

人間の精神をリバースエンジニアリング的に調べあげた上で、その創作物の受取手の精神を、創作物の送り手がコントロールしようとする方向性がまずひとつ。そのコントロールは良い動機のために使われることもあれば、悪い動機のために使われることもある。

その逆に、そのような機械的な精神コントロールを離れようとして、作者自身の心の中から何か、作者自身も知らない何かを湧き立たせようとする方向性が二つ目にある。しかし心の中は広い。そのような方向性を探るとき、作者は自分の心の中の高い部分から、魂の響きのようなものを沸き立たせ、それによって勇気づけられ高揚することもあれば、心の低い部分に溜まっているコールタールのようなものを汲み出して、それに一時的に飲まれてしまうこともある。

なんにせよ、これらの方向性はいずれも、前と後、左と右のような、同一平面上の軸であり、どれもが創作のために必要な方向性であり、これらのバランスがとれているとき、足場は確かなものとなり、その創作活動はイケているものになる。

今後もバランスを取りながら、自他の意識を高めるという目的意識を持って創作していきたい。またその際、創作そのものが一番の目的なのではなく、意識を高めるということ、それこそが一番の目的であるとして、創作活動を続けてゆきたい。そのような目標があればこそ、より一層、創作活動に無心に集中できるようになるだろう。

なぜなら意識を高めるには、結果に執着しない、その瞬間、瞬間への無心の没入こそが最も効果のあるエクササイズだからである。

それにしてもなぜ私は、そんなにも意識を高めたいのだろうか。

その理由は、意識を高めることによって、現実に変化が生じ、それはとても面白いものだからである。意識が高まれば、あらゆることの可能性が新たに開けていき、ダイナミックな変化が次々に生じてゆき、それはとても面白いからである。

どのような人であっても、意識を高めることは可能である。意識が高まるとは、三次元から五次元への意識の上昇である。

そしてそれは、そんなに特別なことではない。どのような人でも日常生活の中で、ふと意識がフロー状態、ゾーン状態に突入し、一種の奇跡を体験したことはあるだろう。

最終的には、そのような意識の確変状態が、偶然の産物ではなく、日常的な意識になること。24時間ずっとそのようなフロー状態で生きるようになること。そのような意識状態が、自分と、人々に、根付き、定着するための助けとなる、そんな娯楽の新しい枠組みを、私は創造してゆきたい。