前回の記事で私は『二十代前半、私は理論に関する本ばかりを読み、実践は何もしなかった』という内容の文章を書いたが、それは正確な事実ではない。

21世紀初頭から私は独学でヨガをやっていた。

当時、私は物凄いヘビースモーカーだったので(今はもう吸ってないよ)、タバコの煙の染み付いた部屋にヨガマットをしいてヨガをやっていた。テキストは佐保田鶴治という、もっとも最初期に日本にヨガを紹介した大学の先生の書いた本だ。

ヨガをやって明らかに健康になった。はっきり言って、いいことしかない。これは皆、やるべきであろう。ちなみにここでヨガと言っているのは、ハタ・ヨガというものであって、それは実はヨガという広大な領域の一分野に過ぎない。ハタ・ヨガとは、いわゆるヨガのイメージ通りに、ストレッチをするヨガのことである。本来のヨガとは悟りのための各種ワークの集合体なのであるが、その中の、瞑想ができるようになる前に、まずは肉体を調整するためにストレッチをしよう、というのがハタ・ヨガである。

ハタ・ヨガでストレッチをするという行為それ自体も瞑想であるが、ヨガというものの中では、どちらかと言えば本流ではなく、準備的なものであろうと私は理解している。

ではハタ・ヨガ以外にどのようなヨガがあるのかといえば、以下のようなものがある。

  • ジュニャーナ・ヨガ
    • これは最短最速で悟るためのヨガである。ダイレクトに真我を瞑想し、一直線で悟ろうとするヨガである。ちなみにこの「真我」という単語は、ヨガ系の本の中では頻出する。現代スピリチュアル用語では、おそらく魂とか、ハイヤーセルフあたりに相当するものであろう。「私ってなんだろう」とか、「思考は私ではない、感情は私ではない、感覚も私ではない」などという知的な思索の果てに悟ってしまうのがジュニャーナ・ヨガである。ただし一般的にはこのヨガのみで悟るのはそうとう難しいとされている。だが生まれながらの才能の持ち主は本当にこれのみでサッと悟るという。
  • バクティ・ヨガ
    • ジュニャーナ・ヨガと双璧を為すヨガの大きな部門である。ジュニャーナ・ヨガは智力を用いて光明へと一直線に駆け上がるのに対し、バクティ・ヨガは愛の力を使って光明へと至る。特定の信仰対象、なんとか女神などへひたすら献身し、愛を注ぎ、その信仰対象からも愛を注がれ返されるという愛のフィードバック・システムを、バクティ・ヨガでは、修行者と信仰対象の間に形成する。信仰対象の、なんとか女神や、なんとかマスターなるものたちがこの世界に実在するのか、そして彼彼女らは本当に修行者に愛と光のエネルギーを送り返してくれるのか、それともそういった存在は、心の修行のための心理的なシンボルにすぎないのか、そういったことは別の議論になってくるのでこの項でそれは問わない。とにかく、その修行者に合った信仰対象へ、激烈な献身と愛を注げば、その信仰対象から、愛と光のエネルギーが反射してその修行者へと送り返されてくる。そのエネルギーの回路によって、心の中に愛と光を満たし、それを超次元的なレベルにまで増幅させていく、というのがバクティ・ヨガである。
  • クンダリニー・ヨガ
    • これは、クンダリニーの上昇を目的とするヨガであり、肉体の中の各種エネルギー・センターの操作に習熟するためのフィジカルな訓練を行うヨガである。
    • 特定の決まったポーズをして、特定の呼吸をすることで、特定のエネルギー・センターにエネルギーを集め、そのセンターに変容を起こしてゆく。そして最終的にはクンダリニーと呼ばれる脊柱基底に眠る生命の本質のエネルギーを、胴体の中央にあるスシュムナー管と呼ばれるエーテル的なエネルギーの管を通して、頭頂部まで引き上げ、そこから肉体の外へと放射できるようになることを目指す、そんなヨガである。
    • これは専門家の指導の下以外ではやってはいけない。肉体のエネルギーセンター、いわゆるチャクラはその人のパーソナリティと密接に結びついており、無理に特定のチャクラにエネルギーを送ると、バランスが崩れて大変な事になりがちだからである。
    • 短い間だったが、かつて私はここに通ってクンダリニー・ヨガの指導を受けていたことがある。私には向いていなそうだったのでやめてしまったが、非常によく練られたカリキュラムでクンダリニー・ヨガを学ぶことができた。また、この団体の創始者、本山博という方の本は、海外ではチャクラやクンダリニー・ヨガを語るにあたっての基本的な文献となっている。そういったものに興味がある方は本山氏の著作を読んでみると多くのものを得られるのではないだろうか。
  • その他いろいろ
    • 佐保田鶴治さんの分類によれば、カルマ・ヨガや、ラージャ・ヨガなど、その他いろいろなヨガがあるということになっている。どうもヨガとは、そもそも自分の心の働きを統御する力を得るためのワークの総称のようなもののようだ。その人の気質によって、俺はラージャ・ヨガを選ぶことにする、あるいは、私はジュニャーナ・ヨガを選ぶことにする、という風なものなのかもしれない。

と、このように、いろいろなヨガの部門があるわけで、どうやらハタ・ヨガとはその中でも、一段レベルが低いというか、初心者向けのもののようだ。

しかし、ハタ・ヨガは佐保田鶴治さんの著作にもそう書かれているように、ある意味、一番大事なもののようにも思える。なぜならやはり、人間、健康が第一だからである。

身体が弱っているとき、衰弱しているときは、気持ちも弱りがちだし、瞑想しようとか、よし、今日は宇宙の真理をゲットしてみるか、などという気にはならないものである。気力体力が充実していてこそ、今日こそ五次元的な意識に自分を固定するぞ! などという野望が生まれてくるものである。

一日、五分でもハタ・ヨガをやると、健康に関しては圧倒的ないいことが生じてくる。いやー、本当に、やっててよかったと思います。

また、ハタ・ヨガをやり、ストレッチ中の、肉体の感覚に意識を集中させるということを覚えると、実はそれこそが、ありとあらゆる瞑想や、スピリチュアルワークや、ヒーリングの基本であるということが後になってわかってくる。さすがヨガというだけあって、健康になったり元気にするだけが効果ではないのだ。

さて、このハタ・ヨガをやることで、ヨガという、人間が編み出した、心を統御するためのもっとも精緻な練習体系のひとつに対して、全般的な興味が出てきた当時の私は、ヨガというものについて、よりその思想の面にフォーカスして書かれている佐保田鶴治さんの他の著作を読み始めた。それによって、その後の各種スピリチュアル・ワークの基礎が私の中に確立されたと思う。

この『ヨーガの宗教理念』という本に書かれている、ラーマ・クリシュナや、ヴィヴェーカーナンダなどという、インドの覚者の伝記を読んでいると、その人間としての生き様に、読者としての自分の魂も高揚し、震えるのが感じられた。今思い出しても、聖なる振動のような、興奮のようなものが心の中に浮かんでくる。それはとてつもなく大好きな、何かの音楽や、映像作品に感動したときの気持ちを、よりクリアに精製したような、感情を超えた感情で、ガラスのように、クリスタルのように透明な澄み渡った興奮だ。この本のことを思い出すと、そのような興奮があることを知ることができた幸運と、それを私にもたらしてくれた人々への感謝が湧いてくるのを感じる。ありがとうございます。

次回に続く