瞑想なりなんなりの、日常的人格を、より高次の意識に合一させていこうとする、伝統的な霊的意識向上のためのワークを続けていくと、確かに人格には、大きな変化が生じ始め、ある日、その変化は一線を超える。

それは、自分の人格が、なんなのか自分にとって理解できなくなる時である。

人格を構成している、感情、思考、感覚、記憶、そういったすべての構成要素の内、必要のない、低い波動を持ったものを、どんどん手放しては、そこにできた空間を、愛と光のエネルギーによって埋めていくという作業を、延々、繰り返し、雨の日も風の日も行い続けると、本当に人格の構成要素は、相当量、入れ替わる。

そのように入れ替わった結果、自分の人格というものが、自分の意識にとっても、何かこう、見知らぬ、何を考えているのかよくわからない存在になる。

この人格が、何を求めて生きているのかよくわからない。

夢は何なのか。何を為すために生きているのか。よくわからなくなる。

古い夢、欠乏意識から生じていた夢、願望、それらは、心の中の欠乏感が埋まるごとに、もはや必要のないものとして手放されていった。

いわゆるカルマ、つまり過去から続いている、内面世界と外面世界におけるエネルギーのフィードバック・ループが解消されていくごとに、その息苦しいエネルギーのループを生き抜くための、苦肉の策としての人格構造は、やはりもはや必要のないものとして手放されていった。

その結果、世界は日を追うごとに、新しい様相を見せ始め、自分の人格は、自分にとって新鮮な、まだ見たことのない笑顔を自分に見せ始める。

意識にとって、それは始めて見る人格であり、その人格と接するのは始めてのことである。

その人格のことを知るには、その人格が発信する自己表現に耳を傾け続けることが必要だ。

存在するものはすべて自己を表現しようとする。その新しい人格もやはり何かのエネルギーや情報を世界に向かって発信しようとする。発信されるその情報は、最初のうちは断片的であり、それぞれがどのような繋がりを持っているのか、理解することは難しい。

しかしそのまま、その人格が発信し続けることを、妨害せずに眺めていれば、新たな人格が発し続けるエネルギー・パターンの中に、見たことのない構造が潜んでいることにいつか気づくはずだ。その構造は新たな構造であるから、実際にそれを意識によって認識し始めるまで、前もってその構造がいかなる構造であるのかを推し量ることはできない。

新たなエネルギーの構造、パターンが、自然に現れてくるのを待って、新たな人格が発する表現を、妨害すること無く眺めていることである。エネルギーを形にして、発し続けることである。

そのうちに、新たな自分、しかし実はずっと自分の中にあり、救い出され、見いだされるのを待っていた自分のエネルギー・パターンが明確に形をとって現れ始める。それは、道を歩く者が、これまでそれを掴むために長い道のりを歩いてきた、あの未知のエネルギー構造のシグネチャーであり、それをその人は、その人が創造した形あるものの中に、ついに明瞭に見出し始める。