成長するとは、どういうことだろうか?

 それは古いパターンが、新しいパターンに置き換わるということである。パソコンで言えばOSがアップデートされるということである。

 OSのアップデート中は、パソコンを操作することはできない。アップデート作業が終わるまで放置しておくしかない。

 バージョンが0.1だけ新しくなるようなちょっとしたアップデートであれば、それは数分で終わるかもしれない。だが、WindowsXPで動いているPCを一気に最新のOSにアップデートするのであれば、とても大がかりな作業が必要になるであろうことは想像にかたくない。もしかしたらPCの部品をいくつか取り替える必要が出てくるかもしれない。もしかしたらPCそのものを全体的に取り替える必要性すらあるかもしれない。

 そのような大がかりなアップデートが、人間に対しても日々、行われつつある。人間はPCと違い、肉体の構成部品を軽々しく取り替えるわけにはいかない。しかも、完全にシャットダウンすることもできない。

 だから、起動して動いている状態のまま、アップデートしていくことになる。いわば飛行機を飛ばしながら、空を飛ぶその飛行機を改造、改善、修理していくかのような作業が人間には行われることになる。

 だが大掛かりなアップデートがなされるとき、その人の活動レベルは極端に低下するかもしれない。何か抱えている仕事があっても、その仕事には手が着かなくなってしまうかもしれない。それも仕方がない。心の中の古いパターンが大幅に書き換えられつつあるときとは、仕事を進行させるプログラム自体が組変わりつつあるときなのである。そんなときに何かの作業をするのは難しいうえに、無理に何かの作業をしようとすればアップデート作業に支障や遅延が生じる可能性がある。

 アップデート中は、もしかしたらとてつもなく眠くなるかもしれない。それはよくあることである。人間に対するアップデートとは、主に、思考回路の書き換えであり、それは寝ているときに効率よく行われる。

 だから、眠くなってしまったときは寝てしまった方がいい。

 その他にも、もう解決したはずの、過去の問題が人生の表舞台に現れて、再燃しているように感じられるときもある。十年前に通過したはずの問題がまた息を吹き返してきて、ダイナミックに自分の目の前に現れてきたように感じられるときもある。

 それは、心の中に堅く折り畳まれていたバグが、より根本的に修正されるために、光の元へと浮上してきたのであり、それもまたアップデートの一部である。

 そのように、古い問題が浮上してきたら、それは無理に解決しようとせず、おとなしく、それをそのまま受け入れて体験しているといいだろう。そのうちにその問題が持っているエネルギーは、現在の新しいエネルギーのパターンと勝手に調和が取れていき、勝手にいい感じになっていくはずだから。

 

 人間には内なるリズムが存在する。

 内なるリズムは宇宙のリズムと調和している。

 内なるリズムは、人間の論理的思考回路によって設定された社会的リズムとは、ときに噛み合わないかもしれない。

 また、自分の人格レベルで決めた、俺は、私は、こうやって時間を使うべきだというルールとも、やはりときに噛み合わないかもしれない。

 噛み合わないときには、どちらのリズムを優先したらいいのだろうか。

 それはもちろん、自分の、より大きな部分に由来するリズムを優先すべきである。

 自分の大きな部分とは、自分の小さい部分、すなわち日々の日常的人格が持っている視野からは、把握しがたいように感じられ、そんなものは存在しないかのように感じられ、そんなあやふやなものは頼るに値しないように感じられ、そんな訳の分からないリズムに自分の人生を委ねるのは自殺行為のように感じられるときもあるかもしれない。

 でも、大丈夫である。

 本当は、何が自分にとってよいことであり、何が自分にとって本当の尺度になることであるかは、誰もが本当はわかっている。

 自分にとって、何が本当にしっくりくることであり、何が自分にとって真実であるか、本当は常に、誰もがわかっている。

 わからない気がしているときは、それはただのプレイに過ぎない。

 何のプレイであるかというと、いわばそれは『家出した子供』プレイである。家出して、マイホームから五千キロ離れた異国で、自分が何者であったかも忘れ、どこに行けばいいのか、何をすればいいのか、そのような基本的な自分に関する知識すべてを忘れた上、異国の地に流布している、自分本来のものではないプログラムによって自分の身元情報を上書きされてしまい、完全にその人にそぐわないプログラムこそが自分本来の行動プログラムであると信じ込み、それに従って動くというプレイである。

 いわばそれはWindowsMeこそが自分本来のOSであると信じ込んだiMacのような立場を体験するというプレイである。

 そのプレイによって、ときに地獄に堕ちたかのような苦痛を体験でき、ときに信じられない孤独感を体験することが出来、また、砂を噛むような虚しさを味わうこともできる。それはたまにエキサイティングで、だいたいにおいてなんだかよくわからない時間を体験できるひとときだった。

 そのプレイの様々な領域を探索し終えたあなたは、そのプレイを終え、新たな何かを始めたくなるかもしれない。

 新たな何か、それは自分の真実のOSを取り戻すということかもしれない。それは自分の本当のあり方を探し始め、それを実際に、その手に取り戻し始めるということかもしれない。

 その決意をしたとき、その選択を心の中でしたとき、プレイは、演技は、少しずつ終わりを迎え始め、新たな何かが始まってくる。

 今、プレイ、演技は終わり、そして本番、リアルな現実のあなたが始まりつつある。そんなあなたに、古いエネルギーを洗い流し、新たなエネルギー・パターンをインストールするための光のシャワーが天から、銀河から、空から降り注ぎ始める。

 こんな内容の文章を、私は前にも書いたかもしれない。でもこれは、とても大事なことだから、何度でも書いた方がいいし、何度でも読んだほうがいい。

 あなたはこのきらめく光のエネルギーを、感情の中に吸収し、思考回路の中に吸収し、肉体の全細胞の中に吸収し、DNAの中にも吸収し、心の目でのみ見ることのできるあなたのその美しいエーテル体の中にも吸収し、今まさに目覚め始めつつある体の中の各種エネルギーセンターの中にも吸収する。

 そしてアップデート作業は遅延なく予定通り開始され、滞り無く進行し、あなたはときにものすごく眠くなり、あなたはときに、今まで普通に出来ていたことが、急にできなくなったり、今まで普通だと感じていたものごとに、急に違和感を感じ始めたりするかもしれない。

 そのときあなたの人格は、いったい何が起きたのだろうかと、何かまずいことが起きているのではないだろうかと、不安になって、左右を見回してしまうかもしれない。

 それもいいだろう。不安になるのもいい。

 だが、不安になる必要もない。何かのアップデートが行われているのであろう、その具体的内容は分かりかねるが、きっといい方向に行くに違いないと、安心して、宇宙のリズムに、魂のリズムに、その流れに、身をゆだねて任せることもできる。

 どちらでもいい。

 前者の過ごし方は、ちょっと苦しい体験をすることになるだろう。なぜなら不安だから。

 後者の過ごし方は、比較的、楽な体験をすることになるだろう。なぜならゆだねていればリラックスできるから。

 でも、苦しかろうが、リラックスしていようが、アップデート作業は勝手に進んでいく。

 なぜか?

 それはその選択を、いつかあなたが、してしまったからである。

 あるいはこれからするからである。

 いつか、いつのときにか提示された、あるいはもしかしたら今この瞬間にあなたに提示されている、「自分のすべてをアップデートしますか?」という選択支に対して、「OK!」という答えを、あなたは選んだのだ。

 その意識的な選択が成されてしまった後は、もはやノンストップであなたはこの目覚めの道を、あの終点であり、真の出発点でもあり、実は今ここに存在している、あのアルファにしてオメガな地点にまで突っ走っていくことになるであろう。健闘を祈る。