人間の中で、本当に生きているもの、それはハートだ。
本当に存在していると言える場所、それはハートだ。
それ以外のもの、思考や感情や感覚は、存在しているにしても、一時的なものであり、すぐに変化していく。
そういった、すぐに変化し消えてしまうものを頼りにすることはできない。
しかしハートは永続すると言っても差し支えないだろう。
ハートとは何か。心臓のことか。いや、ここでハートという言葉で指し示しているものは、もっと抽象的なものだ。雰囲気で、それが指し示しているものを、なんとかつかみとっていただきたい。
自分のハート。それが発するシグナル。それを理解することは、存在として、存在していく上で、決定的に重要なことである。
ハートのシグナル、それに気づき、それがどんなにかすかなものでも、それに従うことは、存在として存在していく上で、最重要のことである。
なぜなら、そのシグナルを発しているものこそが、自分であり、それ以外のもの、思考も、感情も、感覚も、自分ではないからだ。
自分の意思、それこそがハートのシグナルであり、それに従った時、人は自分を発見するであろう。
だがそれ以外のもの、自分の思考や、一時的な感情や感覚に流されたとき、人は自分を見失っていくであろう。
それがどれだけもっともらしい思考であっても、世界が百人の村だとして、百人が全員、これが正しいことであると信じ込んでいるような観念であっても、もしその考えが、自分のハートの提示するシグナルと食い違っているのなら、それは自分にとって不必要な考えであり、断固として無視すべき観念である。
また、自分のハートの発するシグナルに従おうとするとき、「こんなことしても無意味だ」「くだらない」「やれば自他に損害を及ぼすことになる」「論理的に考えて絶対にやらない方がいい」などなどという、完全に理路整然とした、一理も百理もある考えが浮かんできて、自分のハートからの行動を、自分自身で押しとどめようとすることがある。
そんなときどうすればいいのか?
もちろん、自分のその思考を、なんとかして、スルーするのである。
スルーできないほどに強烈な思考パターンだった場合、どうすればいいのか?
思考と感情が結びついて形成されている、ハートの命じる行動を阻む檻によって、がんじがらめになっているとき、どうすればいいのか?
そんなときは、何年もかけて、少しずつ、少しずつ、その檻を消滅させるために、地道に努力するのである。
ハートのシグナルが表現されることを阻む檻は、通常、何十年もかけて、人間の中に形成される。
それを一週間やそこらで解くことは、将来的には何らかのテクノロジーが開発されて可能になるかもしれないが、今のところ、不可能に思われる。
だから、地道に努力するのである。
自分を解放するために。自分のハートを閉じ込めている檻、心の壁、ATフィールドを、少しずつ、少しずつ、削って、溶かしていくのである。
その努力は、ときに、途方もない努力として感じられるかもしれない。
だが、その努力ほどに、実りのある努力はこの世に存在しない。
なぜならその努力は、本当に生きているものを、自由に生かすための努力であるから。
その努力によって、自分が本当に、生き始めることになるのだから。