学校、それはシンボリックな意味を持っている。街、それもシンボリックな意味を持っている。主人公、それはシンボリックな意味を持っており、ヒロイン、それもシンボリックな意味を持っている。小説に出てくるものは、すべてシンボリックな意味を持っている。それがどれだけ現実に似せて書かれていようとも。そもそも現実にあるものすべても、やはり小説の内部にあるものと同じようにシンボリックなものであり、実のところ、それらは『象徴的』というよりも『象徴そのもの』である。現実世界にあるすべてのものも、小説の中に書かれている文字たちと何ら変わるところのない存在である。つまり私もあなたもひとつの文字、あるいは文章であると言える。このことを意識しながら文章を書くことで、いくつかの利点が得られる。それは以下のようなことである。
- 小説は現実を模写することが目的ではないということがわかる。
- 小説内に描かれていることが現実と乖離しているように感じられても、それについて問題を感じる必要はないとわかる。
- 小説内の各種シンボルは、それらを使って特定の意味感覚へのリンクを形成することが目的であるとわかる。
- これらの理解によって、小説の本質が理解できるようになる。
小説の本質とは『メンタル界およびアストラル界に構築されている、特定の意味感覚』である。
いや、より純粋な小説の本質の表現を求めるならば、『メンタル界に構築された想念形態』というアリス・ベイリーの著作的な表現こそが正しいように思える。
何かしらの想念形態が、目に見えない世界に生まれる。
その想念形態が、アストラル界に下ってくることで、感情的に知覚可能な形態、つまり物語性やらなにやらを獲得する。この時点ではまだ読者にも作者にもその小説を目で見ることはできない。だが少なくとも作者にはそれを雰囲気的、感情的には感じられるようになる。それが小説におけるエーテル体といったものであろう。それをさらに文章で表現することによって、ようやく小説に肉体が与えられるというわけだ。
これとほぼ同じ考察をミヒャエル・エンデもしていたが(『エンデのメモ箱』に収められているエッセイによれば)、彼もまた、この手の知識の研究者であり、それを実際に用いて創作する一種の魔術師と呼ぶべき存在であったのだろうと私は思う。
そして今の時代、このような方法論への自覚的な研究に基づいた創作は、必要なことなのだと私は信じる。ここでちょっと二元的な対立軸を持ちだしてしまうが、作家=がむしゃらに書くべし、方法論にとらわれるのは作家にとっての魔境である的な考えが昔からずっと創作という領域においては強いように思う。それは確かに一理あり、テクニック的なことに主眼を置いた方法論の研究は、はっきりいって袋小路一直線であり、そんなものに気を取られても百害あって一利なしであることが多々あろう。なぜなら表面のテクニック的な方法論は、まず間違いなく何かの大きな勘違いから生まれているからだ。その勘違いに気づくことは、一種の回心体験を経るまでは難しい。
しかし自分の精神の使い方や、実際にアイデアが生じるメカニズムの研究は、真に意義のあることであるように思う。なぜなら自分の精神こそが、アイデアが生まれる場所であることは確かだからだ。そこを知ることで、そこがどのように機能するかがわかり、それによってようやく、盲目的な創作、エネルギーロスの多い創作から離れ、着実な、真の意味で科学的な創作に着手できるようになるのである。
表面的テクニックへの考察は無意味であり、創作家を長い長い回り道に導く。
盲目的なガムシャラな創作は、創作家をギャンブラー的な不安と恍惚の揺れ動くシーソーの中に叩き込み、彼の精神をすり減らす。
秘教的なマニフェスティングの手法の研究と実践による創作には新時代の希望があり、大勢の作家の人生を楽にして、彼らの仕事を効率化させるための鍵がある。
その秘密の鍵を、未回心の人間でも使えるように、ステップダウンして、大勢の人間に使用可能なものするのが、私の目標の一つである。そのためにはまずその秘密の鍵とやらを自分が自由自在に使えるようになることが、なにより先決とは言わないまでも、方向性の一つとしてあるだろう。自分で秘教的創作法をマスターしつつ、同時並行でその方法を他人に教えていくことが、だいたいにおいて、何かの新しい方法論をこの世に顕現させるときの効率よいパターンではないかな、と思う。