真のオカルト的な仕事には次のものが必要である。
1 大計画との接触。
2 大計画と協力したいという正しい願望。
3 想念形態を建設し、これらの想念形態の注目をメンタル界に限定すること。この行為はその性質において非常に強力であるため、創造された想念形態はそれ自体の生命周期を持つようになり、顕現してその仕事を遂行することに決して失敗することはない。
4 想念形態をメンタル界から方向づけ、その特定の企てに限定すること。そうすることで、正しい思いと正しい方向づけが正しい働きにつながり、左手の道に陥る危険が確実に避けられることを知りなさい。
これは熱誠家があまり認識していない一つの教訓である。彼らは自分の想念形態を出現させ、アイディアを顕現させたいという情緒的な欲求に夢中になっている。彼らは伝統的な仕事のやり方を守ることと物質界での活動に多くの時間を費やしている。彼らは、自分が創造した形態に対する無執着を保って、ただ方向づける媒介として行動するのではなく、その形態と同一化することによって身をすり減らしている。マインドの界層で仕事をすることを学びなさい。そこであなたの形態を築きなさい。そのとき、責任があなたにある形態にあなたが埋没するならば、それはあなたに憑依し、あなたを支配するようになり、その形態はその存在目的を果たすことなく、支配要因になってしまうということを覚えておきなさい。形態が支配するとき、次のような危険性が生まれる。つまり、形態が誤った方向に差し向けられ、左手の道をたどり、物質の力を増大させ、敏感な魂を拘束する力を強めるという危険性が。
簡単に次のように付け加えたほうがよいであろう。つまり、物質の力を増強し、形態質量のエネルギーを増大させる傾向のあるものは何であれ、左手の道に向かう傾向を生み出し、大計画とそれが覆い隠している大目的から次第に引き離す力を生み出すと。
つまりどういうことか。小説に限定して考えるなら、文体、構成、テクニック的なもの、文章の上手さ、あるいは各種シーン、ストーリー、そういったものが上の文で言われているところの形態に当てはまる。それよりも、小説が表現し、読者に伝えようとしている内容そのものに注目せよということだ。小説で表現されるもの、それはまさに抽象的なものであり、言葉を超えたものである。そこに集中することがメンタル界から方向づけるということの意味であろう。それは中原中也が言うところの「名辞以前の世界」、坂口安吾の言うところの「芸術のふるさと」に注目し、そこに意識をとどまらせることである。またそれは一見、形態を伴わない活動であるため、世間の一般常識的には何もやっていないに等しい活動に見える。だがそこから自然な動きとして文章を書く衝動がやってくるまで、そこにとどまるべきなのだ。決してあせって形態を構築しようとしてはならない。メンタル界からの下降を信じて顕現のインパルスを待ち続けるのだ。