何回か続いたこのシリーズ、『創造力を伸ばすための行動』だが、思いのほか長くなり、しかもこの最期の項目がまだ終わらない。文章を書くのは難しいし、自分の考えを表現するのは難しいし、もう創造力なんて伸ばさなくてもいいのではないかと思える。
街は今、クリスマスであり、聴きなれたクリスマスソングを聞いて日々を大人しく過ごしてゆけばいいのではないだろうか。
だがこの前、私は作曲活動をした。冬の街を歩くときのテーマソングを想定して作った曲である。その音楽を聴いて街を歩くと、いいんですよね。本当に。
それまでの気分が、『広大な世界の中を、ちっぽけな自分が、なんの意味もなくさまよっている』というものだったとしても、自作の音楽をかけた瞬間、主客がひっくりかえり、この広大な世界は自分の人生を意味深く飾ってくれる舞台に思えてくる。
何かを自分の手で作ることにより、外部の世界に圧倒されずに生きていくことができるのだ!
というわけで今日も創造力を伸ばす方法について考えてみたい。
今日は『自分を深める』ということについて考えてみます。
自分を深めるとは、自分の意識の深度を認識し、浅いところから深いところまで、それぞれの意識状態に熟達するということである。
それぞれの意識状態を下に大まかに箇条書きにしてみる。またそれらの意識状態に関連づけられた脳波も書いておく。本当にその意識状態に、その脳波が対応しているのか、私は脳波計を持っていないのでわからないのだが、とりあえず何かの思索の材料になればと思ってのことである。
意識状態 浅い↑
日常的意識状態 β波
リラックス状態 α波
瞑想状態 θ波
意識状態 深い↓
下の方、深い意識状態に向かうほど、脳波の周波数は低く、その振幅は長いものになっていく。波の振動がゆったりしていくというこだ。浅い意識状態ではその逆に、脳波の周波数は高く、振幅は短いものになる。
ところで、このように上から下へ、浅から深へと一列にに並べることができる意識状態とは少し違ったものとして、法悦状態、狭義のトランス状態という意識状態が存在している。
なぜ『狭義の』というかというと、リラックス状態や瞑想状態も、ぜんぶひっくるめて『トランス状態』という言葉で表されることがあるからである。しかしここで『狭義のトランス状態』という言葉で表したいものは、いわゆる「アガっている状態」とか「神がかってる状態」とか「キター!」という状態というか、そういった雰囲気の意識状態である。
それは意識活動が停止に近づく瞑想状態とは、真逆の方向性にある意識状態である。何かエキサイティングな活動をしていたり、スポーツに意識を集中したり、創作活動の中でフロー状態に入ったり、あるいはいわゆるひとつのチャネリングをしたりという活動の中でよく現れる意識状態である。それはおそらく脳波的には、ガンマ波と結び付けられる意識状態であるが、さきほども書いた通りこの脳波の分類がどこまで科学的に意味を持つものかは私はさっぱりわかりません。本稿ではそれを、ただ意識状態を区分けするためのラベルとして使っています。
この狭義のトランス状態意識、法悦状態的意識、あるいはガンマ波的意識は、静けさや深さというよりも、脳の過活動的な雰囲気が感じられるものである。その意識状態は、長時間のスポーツや、アクティブな創作活動や、まさにトランス音楽を聴いてのダンスといったものの中で得られやすいものである。
だがその意識状態で得られる洞察やエネルギーは、とても意義深いものがある。だから浅い深いという分類をするとすれば、法悦状態意識、狭義のトランス状態意識は、深い意識状態ということができるだろう。
つまり日常の意識よりも、深い意味感を持った意識状態に至るためには、二つの方向性があると言える。
ひとつの方向性は、自分を静かにし、脳の活動を大人しくさせていく方向性である。もうひとつの方向性は、自分をアクティブにし、盛り上げて活動的にしていく方向性である。
一方の方向性を瞑想的意識状態、もう一方をトランス的意識状態と言ってもいいかもしれない。そしてその中間に日常的意識状態がある。
この三つの意識状態を活動性というパラメータで上下に並べるとこのようになる。
活動性 高↑
トランス的意識状態
日常的意識状態
瞑想的意識状態
活動性 低↓
さて、本稿のテーマ、『自分を深める』とは、この三つの意識状態をマスターすることである。
自分を深めるためには、深い意識状態に至ることができなければならない。そのために、深い意識状態の二つのモード、すなわち『トランス的意識状態』と『瞑想的意識状態』をマスターする必要があるということだ。
おそらく多くの人はトランス的意識状態についてはある程度、理解しているはずである。またその意識状態に至るための個人的なツールも持っているはずである。
過活動や長時間労働、エナジードリンク、あがる音楽、肉体的、精神的苦痛、そういったものは、トランス状態に至るためのツールである。
当然のことながら、そのツールの使用によって至るトランス状態への中毒というものが存在しているため、そういったツールの過度の使用は注意が必要である。できれば心身への負荷を持たず、中毒性もない方法によってトランス状態に至ることができるようになりたい。それには繰り返しの修練が必要になるだろう。武術的な、型や、決まり切った動作を儀式的に繰り返すタイプの修練は、トランス状態に負荷なく意識を移行させるためのツールなのではないかと思う。
意識の深み、自分という存在の深みから、何かの新鮮なエネルギーやアイデアを取り出したいと望む人は多くいて、そういった人はトランス状態に自分の望むものがあると本能的に知っていることが多い。
しかしそういった人が見過ごしがちな方向性として、瞑想的意識状態が存在している。なぜ瞑想的意識状態は見過ごされがちかというと、それはトランス的意識状態の真逆の場所に存在しており、その中にあるのはただの無であり、その中にはただエネルギーの空白があるように感じられるからである。
だからそれは心の奥底に放置され、有効活用されないでいることが多い。だが自分を深めるためには、この、無への接近が必要不可欠である。無は充満であって、そこからあらゆるものが生まれる。
と、トランス的意識状態と、瞑想的意識状態を区別して書いてみたが、うーん、それはただの言葉遊びのような気もする。この二つの意識状態が本当にどういう関係性にあるのかは、またどういう性質を持っていてどんな利点があるのかは、実際にそれらの意識状態をマスターする過程の中で自分で掴む以外に知ることはできないだろう。
それは、瞑想状態やトランス状態を意識的に管理するということだ。それまで外部要因によって左右されていた、意識のアゲサゲを管理できるようになるということだ。それは自分の意識の手綱を握るということである。それによって始めて人は運命から自由になる。
はっきりいってそれは難しいことであるが、なんにせよ少しずつ練習すればできるようになっていく。