瞑想の効果として「この『自分』という存在が『宇宙』とひとつであるとわかった」という体験が得られると語られることがある。いわゆるワンネス体験という奴である。だいたいその体験は、一晩寝れば忘れてしまうものであるが、何度も繰り返しそれを体験したり、その感覚に向けて自分の日常的な人格を適切に調整していくことによって、その「ワンネス感」はだんだん高まっていく。またそれを日常生活の中で維持できるようになっていく。それに伴って、現実の人間関係は、そのワンネス感を反映した優しいスムーズなものに少しずつ変化していく。

ワンネス感を得て、それを生活の中に維持することができるようになるには、少なくとも今のところ、自覚的な意思によってそれを求め、筋トレのような地道な努力によって、それを自分の中に少しずつ定着させていく必要がある。

ところで、私が好きな、漫画、アニメ、SF小説の中でも、よくワンネス体験が描かれることがある。そういったフィクションの中で、ワンネスはときに、外部からなんらかのカタストロフィとともに津波のように押し寄せてくる、恐るべき災害のように描かれることがある。あるいは、何かヤバい、危険な兵器のように描かれることがある。

「デストロイ」という漫画では、ワンネス感を得た者は、物質破壊能力を得ることができた。ワンネス状態を得た若者たちは、その力によってテロ活動を行った。
『ワンネス感を得ることで、物質を破壊する力を得ることができる』という理屈は、ある程度、正しいもののように思われる。
私の知り合いで、かなりのワンネス状態を自分の中に日常的に維持していると思われる人がいた。その人はスプーン曲げ能力を得ていた。もちろんトリック的なものではない。
「なんか曲げられそうな気がして、やってみたらできるようになった」とのことだった。映画『マトリックス』でオラクルのところにいる子供達がスプーンを曲げまくっていた、あのシーンを思わせるエピソードである。

意識の拡張によって、自分の肉体の外にある物質までもが、自分の意識に含まれるようになったとき、自然に物質に対する操作能力を得るということなのかもしれない。

なんにせよワンネス感を得ることによって、なんらかの超能力を得ることは十分にあり得そうなものと感じる。インドでは、そのような力をシッディ、達人の力と呼ぶ。

だがワンネス感が高まっているとき、当然のことながら平和な気分になってしまう。そのときなにかを攻撃したり、テロ活動を行なったりすることはかなり難しいはずだ。『攻撃』とは、『分離』という、ワンネス感の真逆の意識状態から導き出される行為であり、それをワンネス感と両立させることは難しいように思う。

この『ワンネス』という概念は、いろんなSF的ストーリーの核となっており、ぱっと思いつくものとしては、新世紀エヴァンゲリオンの人類補完計画というものがある。その計画の中で、人類はドロドロに溶けて、物理的にワンネスになる。伝説巨神イデオンでは、いろいろ疲れる戦いがあった果てに、やはり最後はワンネス状態に至る。

私の好きなSF小説の『ブラッド・ミュージック』という話では、ナノマシンのパワーによって、やはり人類はドロドロに溶けて、物理的にワンネスに至る。またその類の話で、もっと古く有名なものとしては、『幼年期の終わり』という話があり、これもいろいろあって、人類はワンネスに至る。

これらの話の共通点としてあるのが、『ワンネス=なんかキモくてヤバいもの』という認識が根底に流れているということだ。また、ワンネスとは、とてつもない破滅の果てに、無理やり強引にたどり着かされてしまうものという認識があるということだ。

エヴァではサードインパクトというなんだかよくわからない破滅的な出来事が起き、人類は無理やりドロドロに溶かされてひとつにされた。

イデオンでは宇宙的大戦争の果てにわけのわからないイデという力のせいで人類と宇宙人は無理やりひとつにされてしまった。ブラッド・ミュージックではナノマシンの暴走のせいで人類は無理やりひとつに溶かされた。幼年期の終わりでも、すごくキモイ感じに人間は進化していき、その果てに意識がひとつになった。

このように創作の中では、ワンネス状態=キモイ、やばい、外部の力によって無理やり押し付けられるもの、として描かれることが本当に、本当に多い。

また、ときに、そのようなワンネスに向かう流れに反抗する若者が物語の主人公だったりする。

私的には、そんな物語は飽きた、飽きた、飽き飽きだと言いたい。

私が読みたいのは、もう完全にワンネス状態になり、その意識状態がキープされ、日常と化した、そのあとの物語だ。

ワンネス状態=ヤバいもの、怖いもの、キモいものという、古い物語の中に流れる認識は、単に、自分の意識の領域を大きく広げることを恐れていた者たちの、その恐れが投影されたものに過ぎない。

そのような恐れは意識の拡張という娯楽体験を阻害する。よってそれは速やかに手放され、デストロイされるべきである。