あなたの本質は霊、すなわちスピリットである。
(霊と言っても幽霊、つまりゴーストではない)
スピリットというものは、とても凄いものである。
それは肉体を超えており、多次元的性質を持っており、時間と空間を超越しており、すべてなるもの、すなわち神とひとつである。
神とは何か?
それは存在するすべてであり、無限であり、そのような究極の無限を便宜上、神という文字で表す。
その無限の一部分があなたのスピリットである。
無限の一部分はやはり無限である。
だから、あなたの本質、スピリットも無限の存在である。
(いやー、良かったね。本当に良かったと思います。お互い、無限で、助かりましたね)
その無限の存在が、いろいろあって、時間と空間の中に入り、肉体をまとい、自分をその肉体であると認識しているのが、今現在の状態である。
無限の存在が、自分の無限性を忘れ、自分を有限の存在であると定義していく過程を、下降、すなわちディセンションと呼ぶ。
本来、無限であるものが、有限のものであるフリをすると、とてもとても疲れる。
とてもとても疲れるから、あなたはときどき、思うかもしれない。
「帰りたい」と。
しかしあなたは忘れているかもしれない。
どこに帰ればいいのか。
どうやって帰ればいいのか。
もう二度と戻れないのではないか。
思い出せないあの故郷には、私はもう、二度と戻ることはできないのではないか。
そう思って、あなたはとても悲しいかもしれない。自分が何かとてつもない間違いをしでかしてしまったような気がしているかもしれない。
そして、帰るのを諦め、この深い地の底で、生きてくために、より強く、賢くなろうとする。それはより深く、自分自身を、三次元世界で生きる肉体であると定義することである。
この世の道理に従って、この世でうまくやっていこうとする限り、あなたのディセンションの過程は続いていく。ディセンションすればするほど、物質性は強まり、あなたの感情と思考は重くなり、その重みによって、あなたの足取りはますます重くなっていく。まるで沢山の荷物を背負って砂漠を横断するラクダのように。
しかしある時、あまりにも、重くなりすぎたその荷があなたを疲れさせ、忍耐の限界を超えたあなたはついに、その荷を放り投げようとする。
そして「もうこんなこと続けてられない!」とあなたは叫ぶ。獅子のように。
そしてあなたは、自分が背負ってきた重荷を一つ一つ引き裂きながら、ついに、何か別の、本当に画期的な、真実の何かを探し始める。
そのとき、もしかしたら、あなたはまた自分の外部に真実を探すかもしれない。
しかし外部には真実はない。
もし外部に何か役立つことがあるとしたら、それは、「あなたの中に真実があるよ」という、いいから自分の中を見てみろよという、鏡のようなものだけだ。
外部にある役立つものは、あなたの内側を映しだしてくれる鏡だけだ。
その鏡を覗いてみれば、あなたの顔が映っている。
あなたの顔、あなたのその瞳の奥には、あなたの真実の光がある。
あなたの中のその光、幼子のように無垢な、その無限の光があなたである。
その無限の光の中に、すべてのものが浮かんでいる。
目に見えるすべてのものは、浮かんでは消え、形を変えて、あなたという無限の存在の中にやってきては去り、そしてまたやってきては、去っていく。
その生滅に一喜一憂することはない。あなたはそれら形を変える形ではなく、その形が浮かぶフィールドそのものであるから。
あなたは欠ることのない、減ることのない、永遠に無垢な聖なる存在である。今この瞬間も、あなたは永遠の存在であり、時が始まる前からずっと変わらず存在し続けている。
しかし、そのような智慧を忘れることも、たまにはいいと思う。
このような智慧を忘れて、たくさんたくさん、形になっては死んでいく、そんなストーリーを味わうのも、たまにはとても、いいことだと思う。そのストーリーの中で、きっと、それなりに、面白いことも沢山あったのではないかなと思う。
しかし、ときに、あなたは思い出したくなるであろう。
自分の本質を、自分という光の存在を、思い出し、そしてその聖なる光を輝かせたくなるときもあるであろう。
特にこの、今という時にあっては。
あまりにも多くの人がその聖なる光を輝かせようとしているこのタイミング、この時代、この聖なる日々の中にあっては、あなたももう、その仮面を外し、自らの本性を思い出し、それを輝かせたくなるだろう。
そして、その聖なる欲望に降参した時、あなたはスピリチュアルな生き方を始めるであろう。
スピリチュアルな生き方とは、自らの内なるスピリットを少しずつ思い出していく道であり、それは下降ではなく、その反対方向への道、上昇の道である。下降するために身につけてきた重りをひとつずつ外していく生き方である。
スピリチュアルな生き方とは、まだ何もわからなくても、自らの本質を思い出そうとし、思い出せたその本質の輝きを、わずかずつでも、周囲に放射していく生き方である。
数多の輪廻の中、文字通り死ぬほど苦しんで続けてきたディセンションは、新たなる生き方、スピリチュアルな生き方、すなわち上昇の運動を始めるまでの、長い長いタメだったのであり、この上昇の開始こそが、お祭りであり、究極の喜びの始まりであり、生命への回帰であり、爆発である。
ぜひあなたもスピリチュアルな生き方を楽しんでいただきたい。
(そのスタートダッシュはげんめけんで!)