ゲームをするとき、自分はプレイヤーであり、ゲーム画面内のキャラを操作して動かしている。

この人生の中で、この自分は、プレイヤーによって操作されるゲームキャラのようなものである。

この三次元空間というゲーム画面があり、その中でこの自分というキャラクターが、プレイヤーに操作されて動いている。

自分の本体、プレイヤーは、この三次元空間の外、つまり三次元よりも上の次元に存在し、そこからキャラクターを操作している。

このプレイヤーを魂(ソウル)と呼び、魂によって駆動されるキャラクターを人格(パーソナリティ)と呼ぶことにする。

魂は三次元空間の外にいて、そこから多数の人格を同時並行的に動かしている。その様子は、ゲーム内に複数のキャラを持つことに似ている。

魂を共有している一つの人格から見て、他の人格は他生の自分として認識される。

認識される、と言ってもそのような認識は当然、魂としてのヴィジョンを知覚しなければ持つことはできない。

ここで「知覚」と書いているのは、まさにそれを感覚的に体験し、認識することが必要だからである。「自分の本質は時間を超えた魂である」という知識を知っていても、それを実際に体験してみなければ、魂のヴィジョンを持つことはできない。

とはいえ魂としての知覚を得ること、そのために人格と魂をつなげていくことは、昨今そんなに難しい作業ではない。

魂と人格を合一させるというその作業を進めるにあたり、まず必要なのはなんと言っても魂への熱望である。

それは、時間を超え空間を超えた崇高ないい感じへの憧れを持つということである。その憧れを強く持ち、妥協なくそれを求めれば、やがて自分の人格に適した、魂へと至るための道筋が人生の中に自然に現れる。

この三次元の低みで生きるこの人格と、超次元に存在を続ける自分の魂を繋ぐその道筋を日々の生活の中で歩くこと。それが、自分の人生を生きるということであり、幸せはそこにある。