昨日、ちらりとヘミシンクについて書いた。ヘミシンクとはバイノーラルビートを用いた脳波誘導技術と、音声によるガイドを組み合わせた、意識の拡張を目的とした誘導瞑想製品である。
実は私は2009年に、この製品を作っているモンロー研究所が開催しているゲートウェイ・ヴォエッジというワークショップに参加するため、アメリカに行ったことがある。
といっても日本人の通訳がついた、完全日本人向けのワークショップだったので、参加のハードルはとても低く、とても快適に受講することができた。
食事はベジタリアン向けメニューを頼んだのだが、とても美味しかった。新鮮なフルーツやおやつを摘み放題で、コーヒーも飲み放題で、思い出すとお腹がすいてくる。
しかも研究所の周りは北海道の美しい自然から、試される厳しさだけを抜いたような、ファンタジックかつ優しさを感じさせる緑の大地であり、セミナーの合間に窓の外を見ると、うさぎちゃんや鹿さんが近くに遊びに来ているのが見えるのだった。
このワークショップで私は初めて、「無条件の愛」とかいうものをダイレクトに体験することができた。また、五感を超えた超感覚的なものを、初めて強くダイレクトに味わった。
それまで瞑想やら何やらしていても、しょせんそれは一種の知的な訓練のような感じがあったが、モンロー研究所での体験によりそれが本当に、物理的なレベルに作用する現実的なものだとわかった。
いや、それ以前にも、実は似たような体験はあった。宇城憲治さんという空手マスターみたいな人のセミナーに行き、どう考えても超能力としか思えない、凄まじい空手パワー、しかし非力学的かつ非催眠的な、謎の力を体験したことがあった。
それはまさにオイゲン・ヘリゲルの『弓道と日本人』に書かれていた達人の力、シッディであった。それを実体験してしまった。それは本に書かれていたファンタジーが、現実と繋がる瞬間だった。
通常、『達人の力』『古武術の力』などといっても、所詮は力学的な工夫に基づいたものであり、それから物理的に生じるものであると世間では解釈されている。だがこの宇城憲治さんのセミナーのところで見たヤツは、力学的な仕組みで説明が付くような力ではなかった。
とかいう話を書くと、超能力あるない論のような不毛な方向に行きそうなので、今日はこのあたりでやめておこう。
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ところで超能力、つまり物理法則を超えた力があるか、ないか、それは、私見によれば、実際に超能力がこの世に存在するか、否かに依存するものではない。
それはむしろ、その人が持っている『世界についての観念』に依存するものである。
つまり、超能力が存在しないという観念を強く持ち、それを保持しようと思っている人は、その通りの世界を体験し、その観念を補強する証拠を体験する。
逆に、超能力は存在するという観念を持ち、それを保持、強化しようとする人は、やはりその観念を証拠付け、強化する体験を得るということだ。
また、個人が心の中に保持する観念群とともに、集合意識レベルでの観念プールというものも存在している。
個人の体験は多かれ少なかれ、この集合意識レベルでの観念プールがその時代に抱いている中核的観念群の影響を受ける。そのため、現在、個人がどれほど強く超能力は存在するという観念を持っていたとしても、それが集団レベルで明確に認識されるレベルで外界に現れることは少ないはずだ。
現れたとしてもその体験が集団の中に定着することは今のところまだ難しそうだ。しかし個人の中では、ある程度は、自分の観念を書き換えていくことにより、超能力的なものを体験する世界へとシフトしていくことは可能である。
とはいえ、別に超能力があろうが、無かろうが、ある意味それはどっちでもいいことである。ポイントは、自分がどのような世界に住みたいかを選べるということだ。
物理法則のみが存在する世界というのもそれはそれで面白みのある世界である。一方で、意識が物質にダイレクトな影響を持つことができる世界、超能力が存在する世界もそれはそれでいろいろな魅力があることだろう。
自立とは、そして大人になるとは、このような世界観の選択権を自分の中に意識的に確立する力を持つということである。
また同時に、他者が意識的、あるいは無意識的に選択している他者の世界観を尊重するということでもある。