その短編小説の最初の舞台は夜の廃校だった。

 もう使われていない木造校舎の廊下に、ラクロス部の青いジャージが脱ぎ捨てられ、割れた窓ガラスから差し込む月光に照らされていた。

 そのジャージを着ていた生徒はどこに消えたのかというと、体育館で生きたまま料理され、邪神への供物になったらしい。

 めたとんは僕にぴったりと肩をくっつけるとチラシをめくった。

 生徒を料理したのは邪神の下僕である太った肉屋だった。巨大な肉切り包丁を淡々と振り下ろし、そつなく肉を切り分けていくブッチャー、そのエプロンは血と汚物でどろどろに汚れていた。

 邪神召喚の儀式の供物となったのは、黒縁めがねを外すとアイドル的な容姿になる黒髪の女子だった。

 彼女はブッチャーによって解体されたのち、この宇宙が消滅するまで邪神の体内でその支配下におかれ、邪神にエネルギーを吸い取られつつ、そのお返しに絶え間ない苦痛を与えられた。その最中、めがねを失ってぼやけた視界の中、赤い血しぶきの中に、黒髪の女子は思い出せない真実を探し求めた。忘れた自分を取り戻そうとして。

 邪神には角が生えている。

 触手も生えている。

 触手には吸盤がついている。吸盤に触れると、通常の人間ならば瞬時に皮が剥がれて死ぬ。鍛えている人間ならば、二秒ほど持ちこたえたのちに死ぬ。

 しかし邪神は人間をそう簡単には殺さない。

 なぜなら邪神の栄養は人間の恐怖や苦痛だからだ。ゆっくりと殺し、殺したのちも、魔術によって復活させて、無限に近い年月の間、獲物を大切にいたぶり続ける。

 そのループの中で、邪神の体内にとらわれている獲物の構成要素は、人知を超越した苦痛によって、普通なら何億回発狂してもしたりないほどのダメージを受けて壊れる。そしてやがてすべての溝がフラットになったレコードのように擦り切れてしまう。

 だが邪神はそれでも獲物を解放しない。最初の生け贄のシーンにまで時間を逆再生し、また生け贄はフレッシュさを取り戻し、ジャージを着て懐中電灯片手に夜の廃校に、忘れ物を取りに行く。そして彼女はブッチャーに捕まり、解体され、皿に並べられ、邪神に捧げられる。

 そんなことが無限回、繰り返される。邪神には角が生えており、その顔を直視したものは呪われる。

 体育館に邪神を召還したのは、とあるいじめられっこだった。彼は自分をいじめている存在と、彼にとって不快に感じられる人間を、まとめて邪神の生け贄に捧げようとしたのだった。

 しかし手違いがあって、クラスで唯一、彼に優しく接してくれる黒髪の女子が犠牲になった。

 黒髪の女子はそのとき恋をしており、相手は一学年上の不良っぽい男子だった。

 また黒髪の女子はそのころ、自宅の二階の勉強机で、毎夜、宿題を片付け終わったころに、男女が性交する映像作品を多少の罪悪感を覚えながらこっそり鑑賞する習慣を持っていた。

 父母との関係は良好だった。友達と好きな本や音楽の話をするのが好きだった。将来、花開くことになったであろうさまざまな才能が黒髪の女子にはあった。そういった諸々、すべて含めて邪神の生け贄になった。邪神の角の色は人知を越えた邪悪な色彩であった。

「…………」

 でも、ほんのちょっと角度を変えれば何もかもが変わるはずだし。

 黒髪の女子は拷問されながらそんなことを考えていた。

 この辛い状況を、悲惨や苦痛の真逆、たとえば自由や安全に満ちた状況として見ることができる、そんな視点があるはずだし。

 黒髪の女子はそんなことを考えていた。

「…………」

 現に私は邪神の体内で拷問されて苦しい。

 でもこの何も考えられない脱出不能の絶望という状況も、角度を変えたら違ったふうに見えるはずだし。

 何ひとつ何の壁も拘束もないように見える、自由に見える、秘密の視点があるはずだし。

 黒髪の少女は脳を繰り返し破壊されながら、その視点、自分が自由である視点を探し求めた。

 やがてそれは見つかった。

 彼女は視界を埋め尽くす自分自身の血の赤から離れ、冷酷な宇宙の青と黒から離れ、あまたの拷問がリアルに彫刻された絵の額縁から離れ、どんな悪夢であっても追いかけてくることのできない深い無の中に心を休ませた。

「…………」

 そして再び目を開けたとき、黒髪の探索者の目の前には、大ホールとその壁面に飾られた巨大な洋画と、金のロープのパーティションがあった。

「あ、危なかったし。だけど私は自分を取り戻したし!」

 探索者は絵画から視線を外すと、ホールの奥、新たな回廊に向かって再び歩き始めた。足取りは重く、その姿は薄い。

 だが朦朧としたままでも先に進むしかない。

 迷宮のどこかにいる魔術師を求めて、旅を続けるしかない。

「諦めないで、どんどん前に進むし!」

 大ホールを抜け、回廊をしばらく歩くと無音の図書館に辿りついた。図書館の入り口には『Lb337』と書かれたプレートが貼り付けられていた。

 書架の合間に点在する書見台の前には、透明な影がいくつも立ち尽くし、目の前の本に虚ろな視線を落としていた。その影たちは自分を見失った探索者の成れの果てであり、この図書館が強い磁力を持った罠に満ちていることを示していた。

 だがより遠くまで進むには疲れを癒やす必要があるし。この重い疲れ、心の疲れを癒やすには、適当な本を読むに限るし。

 そう黒髪の探索者は正気を失いつつある思考回路に導かれ、第一閉架室に向かった。そして書架に指を滑らせ、革表紙の触り心地が良い一冊を抜き取った。

 近くの書見台に向かい、そこに本を置く。そしてもう何もかも忘れてこの厚い本の長い文字列の中に意識を埋没させたいという欲求をぐっとこらえて、まずは表紙を眺めてみる。

 柔らかな藍色の革に『Bw553』という記号が箔押しされて鈍い金色に輝いている。意味のわからない記号は、その奥に何か隠された秘密の喜びを予感させた。黒髪の探索者ははやる心を落ち着けるために深呼吸してから、興奮とともに本を大きく割り開いた。

 第一閉架室の天井で瞬く蛍光灯、その低周波の光を浴びるページの明滅する文字を追っていく。

 そこには歴史の記録の体をした、双子の陰鬱な物語があった。その中で、双子たちは生命の危機に瀕していた。生命の危機は常に読者の意識を吸引する力を持っていた。探索者の意識を巻き込みながらパラパラとめくられていくページの中、双子たちは深夜、公民館を抜け出し、森の奥の書庫を目指してひた走っていた。

 めたとんは汗ばんだ肩を、よりぴったりと僕にくっつけるとチラシをめくった。

 双子たちは、何度も木の根につまずきながら、そのたびに姉が弟の、あるいは弟が姉の手をとって助け起こし、月明かりが頼りの森を奥へと駆け抜けていった。二匹の動物のように。

 書庫は森の奥の廃屋、その隠された地下にあるという。

 その書庫の奥には、村を抜け出すための秘密が書かれた秘密の本が隠されているという。

 その秘密の書の探索行に、双子の生命がかかっていた。

 それはなぜか?

 この村で双子として生まれた者は、十二歳になると生贄に捧げられる運命にあるからだ。秘密の書の力によって村を抜け出さなければ、双子は明日、儀式の供物となるのだ。

 その儀式は陰惨を極め、詳しい内容は私の倫理観の検閲に触れるため、ここに書き残すことはできない。だがその陰惨度は想像を五百パーセントは軽く超えた儀式であると、歴史記録官として数万年の歴史を知る者の立場から言わせてもらう。

 相対的な見方においては、いずれの文化に善も悪もないはずだ。しかし双子の住むその村の文化は端的に言って邪悪である。

 邪悪さの中に生きる無垢な生き物は、得てしてその邪悪さを自らのうちに受け入れてしまう。いまだ夜の森を走り続けている双子のように。

 黒髪が美しい双子の姉は明日で十二歳になる常春姫で、双子の弟は明日で十二歳になる無明眼だ。

 ふたりに村人としての名はない。

 生まれた日から十二年後の儀式の朝まで、ふたりはその陰惨な儀式で使われる役名で呼ばれている。

 儀式の目的は、この邪悪な小村の精神性の根幹を為しているあの『大古事記』に記載されている『常春姫の螺旋降り』を再演することだ。

 それを再演することによって、常春姫の八つ裂きにされた肉体から豊穣な大地が蘇り、新たな収穫のサイクルに生命が吹き込まれると村民は主張しているが、私の研究によればそれは後付けの言い訳に過ぎない。

 事実は単に『過去に犯した悪事は何度でも反復されて繰り返される』という人間の一般的な心理構造を、村民全体で何万年もかけてループ状に繰り返しているに過ぎない。そしてそのようなループに閉じ込められた精神のあり方を狂気と呼ぶ。

 双子たちもその村民の一員であるため村民の狂気を共有している。双子たちは自分たちが明日惨殺されることを当たり前のこととして受け入れている。

 儀式。そのことに恐怖はあったが、歯医者の椅子に座る以上の臨場感を持って、明日のことを想像することはできないでいる。

 だから、逃げ出そうだなんて思っていない。

 ただ弟には純粋な知識欲があった。一度でいいから、すべての物事の真実を知りたい。だからひと目でいいから読んでみたい。あの秘密の書を。宇宙の真理が書かれている本を。自分の存在がなくなる前に。

 そして姉には、この村では珍しいことに弟への純粋な愛情があった。だから姉は弟の願いを叶えてあげたかった。まだ肌が暖かいそのうちに。

 だから今夜、儀式の前日に、姉は弟の手を引いて、公民館を抜け出し、走りだしたのだ。夜の森の奥へと。

「もう帰ろう、ハル。疲れただろ」

 何度目か、木の根に躓いた姉を、助け起こした弟が言う。

「メイ、疲れてるのはあなたの方だし」

 肩で息をしながら姉が答える。

 実のところふたりとも疲れきっていた。もうこれ以上は走れない。

 公民館を飛び出した時の、鬼から逃げるような高揚感は消えていて、重い疲労感がふたりの心と体にのしかかっていた。

 近くから聞こえる獣の鳴き声、そちらの方が、明日の儀式よりもリアルな恐怖をかきたてた。

 ふたりは鳥肌を立て、汗ばんだ体を寄せ合い、見つめ合った。

 このままじっとしていれば、体内の発信機がふたりの居場所を大人たちに告げ、双子は回収されるだろう。

 このまま走って、もし運良く書庫に辿りつけたとしても、秘密の本を一ページか二ページめくっているうちに、大人たちがふたりを見つけて回収していくだろう。

 そして朝日が昇ると儀式が始まる。

 儀式の内容をどうしても知りたいという探索者は四次元時空資料VF3585を探すとよい。数世紀前に保存された類似の儀式がその時空間には記録されている。しかし見ないほうがいいと忠告はしておく。

 その見ないほうがいい儀式に生贄として捧げられることの方が、暗い森を獣に怯えながら迷い歩くことよりも、今、ふたりには魅力的に見えつつあった。

 二人の荒い呼吸が闇の中に響く。

 姉と弟の歩く速度は一歩ごとに遅くなっていく。

 もうあと一歩で、歩みを止め、ズタ袋をかぶった生贄回収人たちがやってくるのを木の根に座り込んで待っている以外、何もできないというところまで二人は疲れ果てていた。

 だがそのときだった。ふたりは見た。森の中の廃屋の明かりを。

 廃屋の門に吊り下げられた、燃えさかるランタンの明かりが、樹々の枝の隙間を貫いてふたりの目に届いた。

 弟は姉を守るという名目で、姉の汗に湿った手をぎゅっと握りしめた。

 姉は弟を目的地に連れて行くという名目で、弟の腕に腕を絡めた。

 しかしそうやって相手の体を引き寄せたのは、恐怖に怯えてのことだった。

 なぜなら廃屋は村にあるどの建物よりも邪悪な外見をしていたからからである。

 邪悪な外見とは何か?

 具体的に書き記すことは難しい。なぜなら邪悪さを詳細に述べることは狂気の周波数を本資料に定着させることであり、その重く錆びたのこぎりのような禍々しい周波数は、あなたがた探索者の心に消し難い悪影響を残すからである。

 そのような狂気の周波数に飲まれた探索者は、いずれ私の残したこの純正なる資料群から離れ、より重く暗い資料群、例えばVF3585の磁場に引かれ、しまいにはその救いようのない最闇の中へと存在全体を埋没させ、二度とその狂気の重力場から抜け出せなくなることは自明だからである。嘘だと思ったら四次元時空資料Lb337を覗きこんでみればいい。その時空間には正気を失った探索者たちの影がごまんとたむろしている。彼らは今まさに口からよだれをたらし頭からズタ袋を被り、公民館から逃げ出した姉と弟たちを追って、図書館から村の集会場へと群れをなしてなだれ込み、そこからさらに森へと続く県道に殺到し始めているところである。

 もし彼らのようになるのが嫌なら、廃屋の邪悪さについては、また、村の儀式の陰惨さについては、ちらりと漠然と心の片隅で想像するに留め、気をつけて、クリスタルのような意識の透明性を保ちながらこの資料の先を読むがいい。

 双子の姉は廃屋の門におそるおそる近づくと、そこにかかっていたランタンを背伸びして手に取った。

 そしてきしむ木戸を開け、廃屋に足を踏み入れた。

 廃屋の中は、村では嗅いだことのない異様な匂いがした。それは肉が腐れ落ちる腐臭だった。

 しかしランタンで照らされた範囲に死体の影は無く、また腐臭など嗅いだことのなかった双子は危機感を意識に上らせることもなかった。

 ただ動物的本能が注げる危険信号を無意識下に強く受け取りながら、廃屋を探索し、ついに二人を手招きしているかのような、地下室への入り口を見つけ、その羽根戸を開けて、きしむ階段を降りていった。

 階段は螺旋状に地の底へと続いている。

 螺旋階段の左右の壁はその全面が書庫となっており、滑らかにカーブを描く木製の本棚がぐるりと螺旋階段を取り巻いている。

 双子はランタンを手に、足を進める。

 一歩、二歩、階段を降りていく。

 二人が下へと降りていく分、無数の書物の背表紙が、上方へと回転しながらスクロールしていく。

 ランタンの灯りが作る双子の影が、階段の手すりに、本棚に、この世の星の数ほどもある本の背表紙に、揺れ動く闇を形作る。

 その闇と一筋の灯り。

 灯りのゆらめきとそれを取り囲む闇。それは我々に、体を横たえる安息のひとときを思い起こさせる。

 安息のひととき、それは双子にとっては、もう二度とそこで休むことのできないあの寝床の中でのことである。

 公民館には双子専用の寝床が用意されている。

 そこは今は空で、寝床は固く、冷たくなっている。

 双子はいつもその寝床で丸まって寝る。いつか訪れる儀式の日のことを考えまいと自らの内側だけを覗きこむように双子は同じ寝床の中で体を丸めて眠る。

 すぐそばの姉の寝息を聞き、自分も寝息を立てながら、夢に落ちるわずかに手前の場所で、メイと呼ばれる無明眼は『もしも自分が普通の村民だったら』という空想を夢見る。

 空想の中でメイは何かの偉大な発見をしている。

 発見、それは素晴らしいものだ。

 メイは長年の研究の果てに、その発見にたどりつく。

 発見は、村に大きな利益をもたらす。

 メイは自分が人々の役に立てて、生まれてきた意味を感じ、満足し、自分が存在している感覚に喜びを得る。

 メイがその空想を楽しんでいるころ、ハルと呼ばれる常春姫は、すでに眠りに落ち、寝汗をかいて、夢の中で苦しんでいる。

 それは自分が普通の村民に生まれたなら、自分には何も無くて、なんでもないから存在していないという夢だ。

 ハルは誰かを助けて、自分が役だっているという感覚に浸ろうとする。

 幸いにも弟は弱そうであり、彼を助けることでハルは安らかな夢を取り戻す。

 今まで一度も現実の中では、ハルは弟の役に立つことができなかった。

 しかし今、ハルはランタンを持って、弟の一歩前を先導して、階段を降りている。

 ハルは弟の役に立てているという夢が現実となり、かつてない満足感を得ている。一度も味わったことのない興奮を感じている。

 この螺旋階段の果てに隠し扉があり、その奥に秘密の書がある。

 その秘密の書にはかつて誰も読んだことのない秘密が書かれており、その秘密を知ったものはあらゆるものを超えることができる。

『あらゆるもの』その中には、もちろん、村も含まれている。

 だからその書を読んだとき、双子たちは村を脱出することができる。

 しかしランタンの光は僅かな範囲を照らすばかりで、深く潜り続けていく螺旋階段はその先が闇の中に溶け落ちている。

 もうどれだけ歩いただろう。

 ただひとり、ランタンを持ち、眼が見える常春姫は、闇に飲まれて何も見えない無明眼の手を引き、闇の奥、地の底へと降り続けていく。

 常春姫に手を引かれ続ける無明眼は、もう片方の空いた手で、下から上へと滑らかに回転しながらスクロールしていく螺旋書庫から、一冊の本をふと抜き出す。

 下降する動きはもう止まらない。頬を赤く染めた常春姫は、無明眼を奥へ奥へと導き続ける。

 ゆえに無明眼は足を止めることができず、明かりもない、目も見えない中、『Bw553』と金で刻印されたその本の革表紙を、片手の指でそっとなぞった。