自分の存在を、バイオリズム、つまり調子の良し悪しに従って上下する波線として想像して欲しい。

調子が良い時は、自分がその波線の上昇部分におり、調子が悪い時は波線の下降部分にいると想像して欲しい。

もっとも調子が悪い時は、波の最下点にいて、最下点が終わった後は、そこからだんだん上昇を始め、もっとも調子の良いピーク、波の一番上に到達し、その後、また落下を始め、落下のあとでまた上昇し、というアップダウンの運動を、自分が繰り返し行なっていると想像して欲しい。

このように、バイオリズムというか、人の調子は日々、上がったり下がったりの波線を描いている。人によってその波の形は違い、波長も違う。ゆるやかにアップダウンしている人もいれば、ソリッドに、ギザギザに、素早く、のこぎりのようなアップダウンを繰り返している人もいる。

万人が、その生活の中において、そのような調子の波を経験している。

本ブログのメインコンテンツは小説なので、小説執筆という分野におけるアップダウンの波のことを少し考えてみる。

小説執筆の波。

うまく書けるとき、アイデアが沢山湧いてくるとき、たくさんいくらでも書きたいという情熱が湧いているとき。そんな上昇中、アップ中の自分。

その逆に、何を書いてもダメっぽくて、アイデアも何もなくて、そもそも書く気なんて何も起こらないという最低の自分。下降中の自分。最下点にいる自分。

このトップとボトムの中でアップ・ダウンしながら、小説を書く人は小説を書いていく。

小説執筆だけではなく、おそらく他のどんな仕事でも、そして仕事だけでなく、日常生活のありとあらゆる領域において、人はこのようなアップダウンの中で生きているのであろうと思う。

ここで、私からのアドヴァイスとしては。

調子の良さ、ピークの高さを追い求めるよりも、最低の、調子の悪さを受け入れて、むしろそのダメっぽいときの自分こそ、本来の自分の力であると受け入れて、その調子の悪い自分を、どんどん表に出していくことを推奨したい。

小説執筆であれば、やる気が出ずに書いた文章。
なんの情熱もなく書いた文章。
そもそも書き直しや校正もする気になれない文章。
そういう、最低、と感じられるものを、堂々と、表に出していくことを、私としては推奨したい。そして、そのようなダメなときの自分や、ダメなときの自分の産物を、ありのままに肯定し、愛することを薦めたい。

なぜなら力のないときの自分も自分であり、弱っているときの自分も自分であり、調子が悪い時の自分も自分であり、自分のあらゆる部分は無条件に肯定され、愛された方がいいからである。

そのようにして、自分の一番、ダメなときを肯定することで、アップダウンの波は、次第に穏やかになっていく。

また、自分の一番、ダメなときを肯定することで、バイオリズムの波、その全体が、少しずつ、底上げされていく。つまり、ダメなときを肯定することによって、良いときのピークが、勝手に上昇していくのである。

だから、何かをするとき、うまくなろう、上手にやろうとするのは、もちろん良いことであるにしても、

下手なもの、つまらないもの、失敗と感じられること、そういうことをやってしまう自分のことも、ありのままに愛していくのは大事だ。

下手なこと、ノーグッドなこと、間違っているとされていること、そういうことを、たくさんやれば、もしかしたら、たくさんの人に「あいつは良くない。間違ったノーグッドな存在だ」と、自分の存在を、自分の行動を、否定されてしまうかもしれない。

しかし、他人にそう思われてしまう自分もまた、自分という存在の大事な一側面であるから、それはそれで、オーケーなのである。

他人に肯定される、否定される、その両極のどちらもが、創作、あるいは人生というゲームの大事な一側面であり、好き嫌いせず、どちらも食べていくことで、健康な精神が養われるのである。

だから、力を抜いて。

そのとき目の前にある、何かやりたいことを、普段の力でやっていこう! 一歩一歩、歩いていこう!