人間が死ぬ。それを見ると悲しくなる。

好きな人と仲良くなれないと寂しくなる。

殺人が起こるとドキドキする。

悪者が悪いことをすると腹が立つ。

そういった悪の動き対して、抗う人がおり、いわばその善人が活躍すれば、嬉しくなる。

死ぬはずだった人間がなぜか助かると感動する。

仲良くなれないと思っていた人と、仲良くなれれば、天にも昇る心地になる。

こういった感情の動きはすべて、シーソーの両極であり、こういった捉え方で見れば、善悪、苦楽、幸不幸は一つのものであるとわかる。マイナスとプラスによって造られた一つのフィールドであるとわかる。

そして、このように物語を分析した時、たいていの物語の中では、シーソー運動が描かれているとわかる。葛藤とその解決。あるいはプラスからマイナスへの転落。その動きが時間の中で形作るサインウェーブ。

そのアップダウンが楽しいものは、それを愉しめばよい。シーソーというのは楽しいものである。子供は無邪気にシーソーで遊ぶ。大人もたまには童心に帰ってシーソーで遊ぶ。

そこには何の問題もない。

だが大人たるもの、こういう機械的な遊びに興じるのもいいが、より興奮する、より本格的な遊びを求めてもよい。

いや、大人でなくとも、誰もが、万人が、自分の求める、まだこの世に存在していない、新たなタイプの娯楽を自由に求めて良い。

なぜならば、新たなものを生み出すこと、それが今というこの時代に生きる者のやるべきことだからだ。

さて。

私が思う、私が求める、新たなタイプの娯楽とは。

・シーソーのようにアップダウンして、そこから降りた時には、いつもの定位置、いつもの地面の高さに戻るものではなく、外宇宙へと赴くために反重力的な動力によって滑らかに上昇する船のように、その遊びを享受したあとにはもはや元の高さには戻れないもの。アップするだけして、ダウンしないもの。

・それはダウンしないため、ガクガクという上下の動きの楽しさは、これまでのプレイ方法に比べて、損なわれていると感じられるかもしれない。だがそれは滑らかに上昇し続けていく性質を持ったいるため、それを受け取り、それに同調することによって、自分自身も上昇のスパイラルに乗ってしまうもの。それにより自分の意識状態が不可逆的にアップしてしまうもの。

・そのように意識の視点が上昇することにより、いままでの生活全体を新たな視点で捉えられるようになり、それにより万物に新たな意味が付与され、それにより何か画期的な新しいことが、現実的に起こるもの。

・つまりその遊具を降りたあとにこそ、本格的な新しい遊びが、リアルワールドの中で生じること。

こういった要件を兼ね備えたものこそが私の求める娯楽である。

そういった娯楽を作るための研究の場としてこのブログは存在するのである。